石川数正の嫡男・康長と次男・康勝、大坂城に入城
徳川家康の元を出奔し、豊臣方 に寝返った石川数正。関ケ原の合戦の際には数正は死去していますが、彼の死後も石川家は嫡男・康長が家督を相続、信濃・松本8万石の大名家を存続させます (※康勝も1万5千石を継承)。その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦、康長・康勝の兄弟は徳川秀忠に従軍し、真田氏の小県郡冠者ヶ嶽砦を攻めて います。(※もちろん大敗)
こうして石川家は時の趨勢を読み違えることなく、関ケ原では東軍に与したことで存続しますが、慶長18年 (1613年)の大久保長安事件では、長安と縁戚関係にあったことから、康長と康勝(もうひとりの弟・康次も)とともに共に改易処分を受けました。(※正 確な改易の理由は不明。幕府の外様外しであったとする説など、父・数正の出奔事件が影響していたとも考えられます。)
こうして、慶長19年(1614年)大坂の陣において、康長・康勝の兄弟は共に豊臣方として参加。起死回生の逆転人生を狙ったのでした。
真田丸の戦い、まずは簡単な流れ
慶長19年(1614年)末に発生した大坂冬の陣、豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を完全に包囲します。真田丸には真田信繁指揮の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤基次、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置。いっぽうの真田丸正面には、前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣。
12月2日(1615年1月1日)、家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、攻撃はまだおこなわないよう指示。 しかし、前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢がこれを狙撃、作業を妨害します。
12月3日(1月2日)、大坂城内で、南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚。南条は城内で切腹させられますが、豊臣方は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺くことに成功。
12月4日(1月3日)、前田勢は、真田勢の妨害に悩まされていたため、その拠点となった篠山の奪取を目論みます。夜陰に乗じてこの篠山に攻め上がりますがこの時、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻。やがて夜が明けると、真田勢が「小鳥でも討ちに来たのか」と前田勢を挑発。家康の命令むなしく、前田勢はその挑発に乗ってしまい真田丸に攻めかけてしまいます。真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、前田勢に大損害を与えました。前田利常は、将達が命令なく攻撃したことに怒り、兵を撤収させようとします。
しかし、前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けてしまいます。
康勝勢の大失態・ボヤ騒ぎ
ちょうどこの際、城内で火薬庫が誤って爆発する事故が起こります。石川康勝配下のひとりが火薬箱に誤って火縄を落として燃え上がったためで、天が黒く霞むほどの煙幕が広がったといいます。この火災で矢倉は全焼し、焼け落ちたせいで康勝勢は崩れ、康勝自身も火傷を負いました。
しかし、その音を聞いた幕府軍は、南条元忠の内応による合図と勘違いして、さらに激しく攻めかける結果になってしまいます。
豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対し猛反撃。重ねて大損害を与えることに成功し、幕府軍にとってはまさに大惨劇となってしまいました。
これらの惨状を知った家康は退却を命じますが、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、午後になった15時をすぎて、ようやく退却を完了。退却後、これに懲りた家康は、各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命したといいます。