島左近・清興(さこん・きよおき)

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「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」

三成に三顧の礼をもって迎えられ、破格の条件で側近として仕えたという島左近。具体的にはどのような戦国武将だったのか?石田三成に仕えるまでの半生は意外にも史料が残っておらずはっきりとしていません。

まずはその出身地が不明なだけでなく、破格の条件のものとなった左近の「経歴」でさえも判然とせず、まったく謎の多い人物なのです。

1、武田家の山県昌景の配下にあった。

2、筒井順慶に仕える。

3、山城・山崎の合戦に参戦

4、九州攻めなど各地で転戦

5、順慶の死後、筒井家を離れて豊臣秀長に仕える

6、秀長の死後、その後を継いだ豊臣秀保に仕える(蒲生氏郷に仕えて、小田原征伐に参戦したとも)

以上、1~7がその経歴とされますが、筒井家に従えたらしいということの他、このすべてに確証はありません。

やがて三成に仕えることになる島左近ですが、この際のエピソードにも疑問符が・・・

 

三成の4万石のうち、半分の2万石で召し抱えられた!?

石田三成から左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近は、やはりこれを断ろうとしたといいます。しかし、三成は自らの知行高・4万石の半分、2万石の俸禄を左近に提示。「知行の半分をくれるというのか。」と三成の儀に感じ入った左近は仕官を受け入れて召し抱えられた、という有名な逸話があります。しかし、左近が三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからのことであり時代があいません。また、実際には1万5000石の俸禄であったと言われています。(※それでも破格の待遇であったことに違いはありません。)

このエピソード、三成配下の他の武将とごっちゃになっていると考えられます。三成はまだ小姓の頃に、当時の知行400石の全てを投げうって渡辺勘兵衛という武将を召し抱えたといいます。この勘兵衛、柴田勝家から1万2千石で誘われても断ったという人物で、その話を元にして左近のエピソードも作られたと考えられています。

 

関ケ原の合戦

こうして三成に仕えることになった島左近は、家老格、あるいは軍師格、あるいは外交官として重用されました。秀吉の死後、左近は台頭する徳川家康の暗殺を企てたといいますが、これを潔しとしない三成に止められ、やがて時勢は天下分け目の戦いにもつれ込むことになりました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前日には、会津の上杉景勝に備えて、江戸からなかなか動けないはずの家康到着のしらせに動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍に戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利します。

そしていよいよ関ヶ原の戦い本戦。左近は自ら陣頭に立ち西軍有利に戦いを進めますが、正面の黒田長政び田中吉政の軍勢に突撃すると、敵の銃撃にあたり負傷、いったん陣営内に引き上げます。

この時の左近の勇猛さ、また狂気を従えた奮戦ぶりは敵将のあいだでも語り草となったといいます。特に銃撃で負傷を負わせた黒田長政配下の兵は、関ヶ原から数年が過ぎてもなお戦場での悪夢にうなされたという他、みなで左近の服装について語り合った際も、指物、陣羽織、具足に至るまで記憶がそれぞれに違うので、恐ろしさのあまり左近の姿を誰もまともに見られないほどの豪気を発していたといわれています。

そして何より、左近を討ち取ったという東軍の将はひとりも存在せず、その首も見つかっていないことから、この後も島左近が生存したというエピソードも。

関ケ原の合戦後、京都で左近を目撃したと称する者が相次いだと言われています。

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