金色の旗を掲げて、秀吉の使番を仕えた戦国武将
「使番」とは、合戦場にでの伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職にあたります。石川貞清は天下人・秀吉を象徴するカラー、金色の指物(旗)を鎧(よろい)の背にさして行動した、金切裂指物使番(きんのきりさきさしものつかいばん)ではなかったかと考えられています。
秀吉に近習する役職ですから、馬廻・黄母衣衆の真田信繁とは面識があったのかもしれません。
天正18年(1590年)の小田原征伐で功績を挙げると、尾張犬山1万2千石(※のちに12万石とも)を拝領。さらに、豊臣家の信濃木曾の太閤蔵入地10万石(※木曽義昌が下総の阿知戸に移封となった後の地)の代官としても活躍しました。
この地では、木曽産の木材の管理を重点的にが行われ、天正19年(1591年)には秀吉の命により、伏見川端の長屋用材として大量の樽木(※1700丁)を調達している他、木曽の木材が重要視されたため、朝鮮出兵の折には、拠点となる肥前・名護屋城の普請にも、貞清は参加しています。
関ケ原では石田方に属して、豊臣への忠誠をあらわす
しかし、運命の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、自身の居城、犬山城に稲葉貞通・典通父子や竹中重門らともに籠城して徳川方に対峙します。しかし、彼らが極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定してそれぞれ引き上げて行ってしまいます。この事態を受けて、貞清は犬山城を破棄、関ケ原本戦への参戦を決意します。こうして西軍への合流が間に合った貞清は、宇喜多秀家軍の右翼に着陣して戦いました。
商人として成功を遂げた逆転人生
~妻は信繁の娘~
敗戦後は所領を没収、改易の憂き目にあいますが、犬山籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価され、助命を許されました。(※池田輝政の働きかけのおかげとも、黄金千枚で助命されたとも言われています。)
やがて貞清は剃髪して宗休と号し、京で隠棲、茶人・商人(金融業)としての第2の人生を歩むことになります。
この頃、貞清の婚姻の相手となったのが、真田信繁(幸村)の七女・おかね(於金殿)とされています(おかねの母は、春・竹林院)。
商人として成功を果たし、金貸し武将と呼ばれたとも言う貞清は、正室・おかねとともに、その母、春・竹林院を生涯に渡って援助しました。(死後、竜安寺塔頭大珠院に信繁夫妻の墓を建て、五輪塔を建立してます。)
そして、慶長18年(1613年)には、何故か幕府に500石を給されて召抱えられ、武士としての復活も遂げます。
寛永3年(1626年)に死去。子孫は商人として繁栄しました。