方広寺鐘銘事件の真実~家康の言いがかりではなかった!?~

歴史的にも有名な「方広寺鐘銘事件」。これまでの一般的な歴史解釈としては、豊臣家を潰したい家康の一方的な言いがかりとして語られることが多かったと思います。(※当ブログもその内容で過去に記事を投稿しています→ 大蔵卿局と方広寺鐘銘事件

しかし近年の研究で、この事件についても別の解釈が登場しており、今までのイメージとはずいぶん違ってきているのです。

 

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事件までの情勢

この時期の豊臣秀頼と豊臣家は、未だ政治的潜在能力と影響力を持つ存在で、多くの豊臣蔵入地(とよとみくらいれち=最盛期で220万石を越えたとも言われる直轄地。この時期にも西国を中心に存在)や、これらを活用して、豊臣系大名に独自に知行を与えるなど、徳川体制とも一線を画す存在でした。事実、家康は秀頼をどのようにして自らの体制下に組み入れていくか、そうとう悩んでいたものと思われます。

そんな中、1609年(慶長14年)からスタートした、豊臣家による方広寺再建計画はこの時すでに2度目。以前のものは地震で倒壊したり、火災で焼け落ちたりしたためで、家康自身も、当初はこの再建にたいへん協力的であったということです。

そして2年後の1611年(慶長16年)3月28日、秀頼・家康の二条城会見後には、家康は全国の主要大名から江戸の将軍が発令する法令を遵守するよう求める誓詞への署名を取り付けることに成功しており、多くの諸大名を、ほぼその統制下に納めていきました。さらには、加藤清正や浅野幸長、前田利長、池田輝政ら、秀頼に忠誠を誓う豊臣恩顧の大名が相次いで死去。家康にとっては徐々に追い風が吹くこととなりました。

 

家康が怒って当然!~「国家安康」「君臣豊楽」~

こうした中おきたのが「方広寺鐘銘事件」です。家康は方広寺の再建工事の中に問題があると待ったをかけます。

漢詩文に秀でたと言われる、京都南禅寺の長老・清韓が片桐且元に命じらて起草した梵鐘の銘文。その中の「国家安康」「君臣豊楽」の文字が家康の諱(いみな)を分断するだけでなく、豊臣を君主としてたたえるという意味で、家康を呪い、豊臣の繁栄を願ったものだという、現代の我々の感覚で言えば、まさに言いがかりともとれる内容でした。

しかしこの事件の本質を知るには、この諱(いみな)の重要性について、当時の社会では非常に重要視されたものであり、その人物ともはや一体のものとして扱われていたという事実を知らなければなりません。(詳しくは投稿記事 真田左衛門佐信繁~官位とその名の由来~ をご覧下さい)

諱に直接触れることは、その相手を意図して呪う(仏神の力で罰や災いを与えようとしている)ことの現れであり、家康の不快感はもちろん、豊臣家に対する疑念がおこることは、むしろ当然と言えることだったのです。

この事件を契機として、それまで豊臣家の動向に無頓着であった家康も、彼らを完全に手中に収めることを決断したと考えられます。

 

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