ウクライナで残虐非道を働くロシアの歴史的背景

ウクライナで残虐非道を働くロシアの歴史的背景

5月9日、全世界の注目を集めたプーチン「戦勝記念日」演説でしたが、ロイター電(https://jp.reuters.com/article/russia-putin-idJPKCN2MV0H2)によると、「勝利宣言」などは影を潜め、「ウクライナ」という固有名詞すら出て来ず、「ドンバス」などで自分が始めた戦争を「唯一の正しい選択」と頭ごなしの正統性を主張するものの、全体として控え目なものだったようです。 予定されていた「航空パレード」もキャンセル(https://www.fnn.jp/articles/-/357648)、「天候が理由」などとしていますが、衆人環視の中でドローン撃墜など生中継された日にはエライことですので、理由があってやめた可能性もあるでしょう。 さて、この「戦勝記念日」、実はなかなか噴飯もので、日本の報道の大半が「ロシア最大の祝日」と既成事実のような口調で伝えているのは、あまり良い傾向ではありません。 こうした軍事パレード(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220509/k10013616821000.html)類は最近になって取って付けた、派手な喧伝の側面が強いものです。 本稿校正時点の情報として極東からサンクトペテルブルクまでロシア全土28拠点で軍事パレードなど「祝賀行事」が計画、実行されているとのことですが、ウクライナでのパレードなどは確認できませんでした。 5月9日を機に「全面戦争宣言」なども懸念されましたが、そもそもパレードに割ける無傷の兵器は年代物だけだったようで、小規模で地味なものに終わったようです。 それでも「ロシアの勝利~」という怒号に「ウラ~」と大群衆がトキの声をあげる時代錯誤な見世物(https://www.asahi.com/articles/ASQ560CXLQ55UHBI03X.html)は、十二分にこの体制が「ファシズム」であることを全世界に伝えて余りあるものでした。 しかし、これは21世紀に入ってからのこと。2005年以降の出来事で、疑似伝統の挿げ替えに過ぎないことはすでに報道されているので、ご存じの方も多いかと思います。 従来は11月7日、1917年のロシア革命を記念する「革命記念日」が、ソ連最大の祝日でした。 それを廃止したのは、現在も権力を掌握しているウラジーミル・プーチン大統領本人で、また5月1日に致命的なユダヤ人失言を漏らしたセルゲイ・ラブロフ外相もこの年から現在のポジションに就いている。 つまり、今現在の政権を正当化するために大衆を動員してのお祭りなのです。 なぜ「革命記念日」は廃止されたか。それは今後もう「革命」が起きては困るから。 ロマノフ朝ロシア帝国以前から続く、特権支配階層の農奴大衆支配というロシアの専制体制を、政治的には「シロヴィキ」、経済的には「オリガルヒ」といった現在の「貴族」有利に維持することが重要で、体制転覆の「革命」など、もってのほかだからです。 実際にはロンドン時間の5月8日、ベルリンでは日付が変わるタイミングで、デーニッツ・ドイツ海軍司令官が降伏文書に署名しただけの、政治的な日に過ぎない「モスクワ時間5月9日」。 これを「ロシア最大の国民の祝日」に祭り上げたのは、いってみれば、20世紀初頭、ヤクザの人々が「天照大御神」などと書き上げを並べた祭壇を祀り、仰々しい「サカズキ儀式」を創始したのと同じようなものでしょう。 そこにはみかけ上の「伝統イメージ」と「事大主義」があるだけで、真の歴史も伝統も関係ない。 ポピュリズムの「イメージ」をなぞるお祭りで、大衆の溜飲を下げ、間違っても反乱などが起きぬよう反対意見を圧殺するマスメディア的揺動政策、それが「5月9日」ショーアップの真の動機。国民の伝統などに根差すものではありません。 しかし、ロシア国民の多くは残念ながらこうした「流れ」に身を任せている。 第2次世界大戦中の日本人大衆が「帝国の拡張戦争」を「アジアの解放」と歓迎したのと同様、ロシアの拡大を素朴に喜ぶ心理がある。 今回は私の大学での仕事、東アジア術数学とAI駆動のユーラシア共生倫理の観点から「ロシアの正義」を平易に解説してみましょう。 チンギス・ハーンは「英雄」か? ロシアだけに注目すると、個別の事情によって構造的な問題が分らなくなる可能性がありますので、モンゴルの事例で考えてみます。 チンギス・ハーン(1162?-1227?)という人物が存在しました。 モンゴルでは現在も神聖視される英雄ですが、彼とその一族が行ったことは「侵略」「略奪」「土地強奪」「大量殺人」など、今日の国際刑事司法の観点から見れば、ろくでもない事が大半です。 ちなみに「源義経チンギス・ハーン説」という日本国内専門の風聞がありますが、両者は同世代、つまり平安末期に生まれ鎌倉初期までに「モンゴル世界帝国の基礎を確立した」。 そんなチンギス・ハーンをモンゴルでは「英雄」だという。 数人殺せば犯罪者だが、数万人殺せば英雄などという皮肉な表現があります。実際、歴史上の英雄とされる人間の大半はシリアルキラー、平時であればまともに畳の上で生涯を閉じられないような連中ばかりが並びます。 マケドニアのアレクサンダー、フン族のアッティラ大王、キリスト教やイスラムについては微妙なので明言を避けますが宗教戦争で命を失う人が後を絶たないのは21世紀の今日も同じこと。 チンギス・ハーンの息子たち、とりわけ最も西まで侵出した長男バトゥなども、どれだけ多くの殺戮を行ったか、数知れません。 ここでチンギス・ハーンや、その息子バトゥを挙げたのは、ウクライナ戦争に直結するからにほかなりません。 13世紀のマリウポリ「カルカ河畔の戦い」 1206年、モンゴル高原を統一したチンギス・ハーンは、内部の矛盾そらしには対外侵略が有効という手法を熟知していたようです。 豊臣秀吉が国内統一した後、朝鮮出兵したのと同じです。 チンギス・ハーンの配下や息子たち、モンゴル勢は西へ、西へと軍勢を進め、1219年からは中央アジア、ホラズムを討って現在のキルギス、ウズベキスタンやカザフスタンなどに進出。ホラズムのシャー・ムハンマドはカスピ海に浮かぶ島に逃れ現地で死没。 モンゴル軍勢はカスピ海を迂回して西に進み1221年にはグルジア(現在の表記ではジョージア)を占領、グルジア西部は黒海東岸に接しますので、東ローマ帝国の文化圏に到達したことになります。 モンゴルの「侵出」は分かりやすい「破壊」「皆殺し」「略奪」を基調とするものだったと思われます。 何分、史料も破壊し尽くされ「当時5000万人はいた中国の人口が30年で900万人まで激減したと思われる」といった傍証から推定するしかありません。 和平成立後、モンゴルは現地首長の娘を娶り婚姻関係で支配を確立し拡大していきます。 カザフスタンから現在のウクライナに至るステップ地帯は「キプチャク草原」と呼ばれ、キプチャク、あるいはポロヴェツと呼ばれるトゥルク系遊牧民族が住んでいました。 間違ってもロシア人などではありません。 しかし、モンゴルの来襲を受けたキプチャクの首領コチャン・ハンは、娘を嫁がせていたノヴゴロド・ルーシの実力者ムスティスラフ・ムスティスラヴィッチに援助を求めます。 こうしてトルコ系のキプチャク+ロシア加勢の「西軍」とチンギス・ハーン率いるモンゴル「東軍」が1223年ぶつかり合ったのが、黒海の湾アゾフ海に注ぐカルカ河・・・現在のカリチク河・カルミウス河エリアでした。 世界史上に知られる東西激突「カルカ河畔の戦い」。 そしてこの「カルカ河畔の戦い」で、ロシア+キプチャク連合軍は、モンゴルに敗退。 チンギス・ハーンはクリミアまで軍を進めたのち、モンゴル平原に帰還して行き、ウクライナは長男バトゥの治める「ジョチ・ウルス」キプチャク・ハン国として300年来、タタールが支配するエリアとなります。 ちなみに、現在このカルミウス河の河口に位置するのがアゾフスタリ製鉄所、ここに地下6階に及ぶ巨大なシェルターが備えられたのは、昨日今日の由来ではありません。 チンギス・ハーン自身によるモンゴル襲来以来、東西が必ずぶつかる「カルカ河畔」だから、というユーラシア史の基本を確認しておきましょう。 18世紀に「マリウポリ」と名付けられた土地は、東と西が1000年来ぶつかり続けてきた歴史的古戦場で、2022年もまた、悲惨な歴史を繰り返そうとしている。 そういう愚行を本質的にやめさせるのが、賢慮ある外交指導の倫理であると、私たちは専門の観点から考えます。 […]

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