「朝鮮」という呼称に潜む歴史的真実…決して「朝陽の鮮やかなるところ」ではなかった 民族と文明で読み解く東アジアの成立ち

「朝鮮」という呼称に潜む歴史的真実…決して「朝陽の鮮やかなるところ」ではなかった 民族と文明で読み解く東アジアの成立ち

国際情勢を深層から動かしてきた「民族」と「文明」、その歴史からどんな未来が見える? 中国とインドの台頭により、アジアの歴史や文化に関する知識は今や必須の教養となった。しかし教科書が教えてきた中国中心の見方では、アジア史のダイナミズムは理解できない。考古学や遺伝子学を含めた学術研究の進歩も、こうした史観に対して再考を求めている。このたび『 民族と文明で読み解く大アジア史 』(講談社+α新書)の上梓した世界史のベストセラー著者が、朝鮮半島の不都合な真実に迫るーー。 「朝鮮人」は差別語ではない 文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は「朝鮮民族の統一」を政策の最優先課題に掲げ、北朝鮮との融和を進めましたが、失敗しました。尹錫悦(ユン・ソンニョル)新大統領は「北をなだめる時代は終わった」と発言し、前政権の民族融和政策とは一線を画すとしています。 韓国の人々や北朝鮮の人々を総称する時には、「朝鮮人」を使います。しかし、「朝鮮人」という言い方は差別的なので使わないで頂きたいと、私はある雑誌の編集部から原稿校正を入れられたことがあります。「朝鮮人」と言わずして、何と言うのかとその編集部に尋ねたところ、「韓国人」と言うべきだというのです。 1948年以前に韓国などという国は無かったのに、どうして、それを「韓国人」と書くことができるのかと問うと、現在は韓国という国があるのだから、現在や過去に限らず、その名称を使うべきだと強く要請されました。私はその雑誌の記事掲載を断りました。 別の雑誌の編集部からも同じ指摘を受けたことがあり、この編集部とは韓国建国以後の話では「韓国人」を使い、それ以前では「朝鮮人」を使ってよいということで折り合いがつきました。どうやら、一部のメディアでは、「朝鮮人」という言葉は禁忌ワードとして認識されているようです。 これを差別語と捉える人は「朝鮮人」の言葉に負のイメージを勝手に連想させているだけのことです。「朝鮮人」に負の意味はなく、それは民族の名を純粋に表す言葉です。これを差別語とする「ポリコレ意識」こそが逆差別です。 「朝鮮人」の他に、「半島人」という言い方もありますが、これは全てが差別とは言わないまでも、何かの隠語のような響きがあるかもしれません。「朝鮮」という地域名があるのに、それをわざわざ「半島」と言い表そうとする作為を感ぜずにはいられないからです。 朝鮮人自身、歴史的に「朝鮮」の呼称を誇りにしていたようです。李氏王朝は「朝鮮」を「朝陽の鮮やかなるところ」、つまり「東方の地域」という意味で解釈していました。ヨーロッパ人は東方の中東地域を「オリエント(日が昇る方)」と呼びましたが、これとよく似ています。 朝鮮人自身がこのように解釈をして、「朝鮮」を用いていたのですから、「朝鮮」や「朝鮮人」が差別語ということはないのです。現に、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」と、国号に「朝鮮」を使っています。 中国は「シナ」を使うなと要請しましたが、北朝鮮や韓国が「朝鮮」を使うなと要請したことはありません。 「朝鮮」はもともと国号ではなかった 「朝鮮」を最初に言いはじめたのは中国人で、彼らは実は「朝鮮」を「朝陽の鮮やかなるところ」という意味で用いたのではありません。 楽浪郡付近を流れる川(どの川か不明だが、大同江の可能性あり)は「湿水」、「汕水」、或いは「潮汕」と呼ばれており、これらの川の読み音が「朝鮮」に転じたとされます。「朝陽の鮮やかなるところ」というのは朝鮮人が勝手にそのように解釈したに過ぎないのです。 中国人が、「貢物が少ない国」という意味で、「朝貢鮮少」としたことから、「朝鮮」となったという解釈もありますが、流石にこれは後付けの理屈でしょう。 「朝鮮」がいつから使われるようになったのか、はっきりとしていませんが、紀元前1世紀初頭、司馬遷によって書かれた『史記』には、「朝鮮」という記述が見られ、この頃には、中国では「朝鮮」の呼称が既に使われていたのです。 しかし、「朝鮮」は中国や朝鮮で一般的に普及した呼称ではありませんでした。この古い呼称に目を付けたのが、14世紀末の鄭道伝(チョン・ドジョン)という人物でした。鄭道伝は李王朝の建国者の李成桂(イ・ソンゲ)の参謀でした。 クーデターによって、実権を握った李成桂は高麗王家を都から追放し、1392年に自ら王位に就きます。李成桂は高麗に代わる新たな王朝名を定めるため、上国と崇める中国の明に使者を送り、王朝名を下賜して欲しいと依頼しました。 その際、「朝鮮」と「和寧」の二つの案を明に提案しています。既に忘れ去られていた「朝鮮」の呼称を案として持ち出したのが鄭道伝でした。 因みに「和寧」は李成桂の生地で、現在の北朝鮮東北部の咸鏡南道の金野郡でかつて永興郡と呼ばれていたところを指します。「和寧」は本命案の「朝鮮」に対する当て馬候補の案であったと思われます。結局、明の洪武帝は「朝鮮」を使うよう、沙汰を下しました。 しかし、この時に下された「朝鮮」は国号ではありません。李王朝は明に藩属しており、朝鮮王は明の一諸侯王に過ぎず、その領土も明の帝国の一部に過ぎず、主権を持った国ではなかったからです。「朝鮮」はあくまでも地域を表す名として、明が下賜したものなのです。 「朝鮮」のはじまり 史書に登場する朝鮮のはじまりは箕子朝鮮とされます。紀元前12世紀頃、中国人の箕子が建国し、都は王険城(現在の平壌)に置かれました。 『史記』や『漢書』には、箕子が中国の殷王朝の王族で、殷の滅亡後、殷の遺民を率いて、朝鮮に亡命したと記されています。箕子は中国の文化や技術を朝鮮に持ち込み、善政を敷き、朝鮮をよく統治したようです。 朝鮮半島西北部を中心に、紀元前11世紀頃のものと思われる中国様式の出土物が多く出ており、この時代に、中国からの大規模な移民があったことを示しています。こうしたことから、今日の学界では、箕子朝鮮が実在した可能性が高いと見られています。ただし、未だそれを裏付ける史跡が乏しく、実在が確定されているわけではありません。 中世以降、中国文化を崇める朝鮮王朝は箕子を聖人化し、朝鮮の始祖とすることで、中国と一体化し、中国を中心とする「中華文明」の一員になろうとしました。そのため、箕子陵などが盛んに建設され、箕子が各地に祀られました。 しかし、現在の韓国や北朝鮮は一転して、箕子朝鮮を中国側の「作り話」として否定しています。民族意識を高揚させる観点から、中国人起源の箕子朝鮮は都合の悪い存在になったのです。散々、それまで箕子を持ち上げておきながら、実に虫のいい話です。 彼らは代わりに、檀君朝鮮が正式な朝鮮の起源であると主張しています。檀君は天神の子であり、紀元前2333年、平壌城で朝鮮を建国したとされます。この話は『三国遺事』に記述されていますが、『三国遺事』は正史の『三国史記』(1145年完成)からこぼれ落ちた説話集です。 朝鮮人の始祖とされる檀君は民間で信仰されてきた伝説に過ぎませんが、韓国の学校の歴史教科書では、「歴史的事実」と教えられ、箕子朝鮮が「伝説」と教えられます。また、「朝鮮」の呼称を最初に用いたのは壇君であり、朝鮮人はこの時代から自らを「朝鮮」と呼んでおり、壇君以来の古朝鮮の伝統を受け継ぎ、民族の誇りとしなければならないといったことが教えられます。 箕子朝鮮に続き、紀元前195年頃、衛氏朝鮮が建国されました。都は箕子朝鮮と同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人の支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力やノウハウがなかったからです。 衛氏朝鮮は燕の出身の武将の衛満によって建国されます。燕は現在の北京を中心とする中国東北部の地域です。劉邦の前漢王朝の成立に伴い、前漢勢力と対立していた燕の人々を、衛満が率いて朝鮮に亡命し、国を建国したのです。 衛満の軍隊は鉄製の武器で武装し、優れた機能と統制を兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど抵抗できませんでした。高度な文明を擁していた中国人にとって、朝鮮人を屈服させるのは容易なことでした。 箕子朝鮮の実在が未だ確定されていないのに対し、衛氏朝鮮の実在は確定されています。そのため、現在の韓国は中国人起源の箕子朝鮮を否定しても、同じく中国人起源の衛氏朝鮮を否定できず、中国人が古朝鮮を支配していたという実態を結局、覆い隠すことができません。 それでも、かつて、衛満が朝鮮人であるという無理矢理な理屈をでっち上げていました。衛満が朝鮮に入った時、髷を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定でき、朝鮮人である衛満が中国の燕に滞在し、朝鮮に帰って来て国をつくったと説明されていました。韓国の学校でも、1990年代までそのように教えられていました。 植民地にするほどの価値はなかった 衛氏朝鮮は紀元前108年、前漢の武帝によって滅ぼされます。これにより、朝鮮半島の大部分が中国王朝の支配下に入ることになります。武帝は征服した地を4つに分け、楽浪郡などの漢四郡を設置し、朝鮮を中国の一部に組み込みます。これが中国王朝の朝鮮支配のはじまりとなります。 楽浪郡は平壌に置かれていたと見る説がほぼ確実視されていますが、他の三郡についての史書の記述が乏しく、具体的にどこを指すのか、その詳細がはっきりとわかっていません。韓国の学者の一部は、漢四郡が遼東(現在の中国遼寧省)に設置されたもので、朝鮮半島に設置されたものではないと主張しています。あくまで、中国の朝鮮支配を否定しようとしているのです。 前漢王朝は漢四郡を置き、朝鮮を領土の一部に組み込みました。ただし、それが実質的な支配と言えるかどうかは疑問です。この時代、朝鮮は中国の辺境の果ての地で、人口も少なく、貧弱な生産力しかありませんでした。前漢がこのような荒涼とした地域を敢えて予算を投じて、統治する必要などなかったでしょう。 前漢の武帝は北方の匈奴と戦っていました。北の辺境に、強大な異民族が存在したことに付随して、各方面の辺境に、異民族の脅威が存在するかどうかという安全保障上の関心が大いにあったと思われます。 この関心の上に、楽浪郡などの漢四郡が置かれ、それらが統治機能というよりはむしろ、偵察機能を働かせ、辺境の情勢を中央にもたらしていたと考えられます。当時の朝鮮は前漢にとって、植民地にするほどの価値もなかったというのが実情でしょう。 後の中国王朝、唐・元・明・清が朝鮮を隷属させて、徹底的に搾取しますが、前漢時代の朝鮮は原始的で遅れており、搾取すべきものさえなかったのです。 その証拠に、武帝の死後早くも、紀元前82年に、真番郡と臨屯郡を廃し、紀元前75年に、玄菟郡を西に移し、朝鮮に楽浪郡だけを残します。つまり、当時の朝鮮が統治するに足りる土地ではなかったということを示しています。韓国の学者が必死になって、中国の朝鮮支配を否定するまでもない話であったと言えます。 もっと記事を見る

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