ロシアがヨーロッパではない「歴史的な根源」 西欧はいつからロシアに脅威を感じているのか

ロシアがヨーロッパではない「歴史的な根源」 西欧はいつからロシアに脅威を感じているのか

ロシアと西欧は、歴史上ときに接近しつつ、衝突を繰り返してきた。両者の複雑な関係は何に起因するのか。西欧人はロシア、そしてアジアをどう見ているのか。マルクス研究者の的場昭弘氏が、『「19世紀」でわかる世界史講義』で歴史的、文化的、宗教的観点から解説している。 ヨーロッパから見た「アジア」とは、どこから先のことを指すのでしょうか。そもそも「アジア」とはどういう意味なのかということです。 狭義では、ユーラシア大陸とその周辺のうち、西欧という典型的な国民国家、民主国家、資本主義国家以外、これらはすべてアジアです。東欧も含めてアジアと言えます。たとえば、フランスの社会学者エマニュエル・トッド(1951–)は家族構造から見たヨーロッパの相違を描いています。権威主義的な直系型家族と自由な絶対的核家族に分け、主として東欧地域が前者になることを明らかにしました。 東欧はアジア的な権威主義に近い そう考えると、東欧の人々は外見は西欧であっても、実際にはアジア的な権威主義に近い。そのドイツでの分かれ目が、宗教改革の起こったプロテスタント地域であるプロイセン地区であるとすれば、そこにアジアとヨーロッパを分ける一つの有力な分断線があるのかもしれません。 かつて私は、ユーゴスラヴィア、フランス、オランダに住んだことがあります。その体験も踏まえて言うと、ユーゴスラヴィアは権威主義的なスラブ系ですが、クロアチアはカトリック地域だったので、結構自由な雰囲気がありました。 またフランスは平等主義的で、かつ自由への志向が強く、オランダは個人主義的で寛容な気質ですが、一方で権威主義的な面もありました。もちろん個人的な経験則では何もわからないのですが、この三つの国はまったくタイプの違う国であることはわかります。 西ヨーロッパの国民国家は、やがて帝国主義的に変化します。19世紀を代表するフランス、イギリス、ドイツ以外は、すべて非西欧であると考えれば、なるほどすっきりします。もっとも、宗教、風俗、制度など様々な要因が絡むため、そんなにすっきりと割り切ることはできないのですが、それではロシアに関してはどうか。なぜロシアはヨーロッパではないのか。 西欧から見たら、少なくともロシアはアジアに入ります。その最大の理由は、ロシアの宗教がギリシャ正教(正教会)であることで、ビザンツ文明の影響を強く受けてきたからです。ギリシャやマケドニア、ブルガリア、セルビアなどの地域は、ビザンツ文明の影響を受けています。 さらにそこにイスラム文明がおおいかぶさってきました。ロシアはイスラム文明の影響は受けていないものの、少なくともカトリックやプロテスタントではありません。 4世紀にローマ帝国が崩壊し、西ローマ帝国と東ローマに分かれます。西ローマ帝国は、いわゆる「ゲルマン大移動」によって滅びます。しかし、東ローマはビザンツ(イスタンブール、コンスタンチノープル)を中心として、ビザンツ帝国をつくり生き延びます。やがてビザンツにはサラセンが侵入したり(崩壊はしていません)、オスマン・トルコがやって来たりします。 正教会のアイデンティティは保たれる 最終的にオスマン・トルコがビザンツ帝国を崩壊させますが、15世紀まで持ちこたえ、正教会のアイデンティティは保ち続けています。ビザンツ帝国の影響はずっと北上し、ロシアまでビザンツ文明の影響下にありました。もちろん、ここにアジアからの影響もあります。 基本的には、今もロシアの宗教はこの正教会であり、バルカン地域でも正教会が支配的です。ビザンツ帝国の末裔が存続しているのです。キリスト教は、宗教改革までカトリックが中心でしたが、16世紀に宗教革命が起こり、プロテスタントと二つに分かれました。しかし、これらをとりあえず兄弟と考えると、プロテスタント・カトリック連合のキリスト教に対して、正教会があるという形です。まず、この二つのヨーロッパのうち、後者を非西欧とします。 しかし、1989年のベルリンの壁崩壊とともに、EUの名の下にこれらの地域がオール・キリスト教という形でヨーロッパになりました。 ロシアが現在のような西欧的な雰囲気を持つようになったのは、正確に言うと18世紀の前半です。それまでのロシアは、ロシアであってロシアではありませんでした。 キエフ公国やモスクワ大公国などは存在していましたが、それはロシアと違います。17世紀後半のピョートル大帝(1672–1725)までのロシアは、ビザンツ帝国の文化の影響の色濃い、ビザンツ的世界でした。もっと言えば、ギリシャ正教を中心とした文化の中で生きていました。 ところが、ピョートル大帝が一気にそれを変えます。これがロシアのヨーロッパ化で、そちらに舵を切ったのです。その理由はヨーロッパにおける状況の変化です。ピョートルによる転換の直前に、オスマン・トルコの侵攻がウィーンまで及びます。やがてオスマン・トルコは衰退し、そこからは没落の一途をたどるのですが、そうなると南のオスマン・トルコの勢力圏が弱まって、相対的にロシアの力が高まります。 しかし、それは逆に不幸を招くものでした。「ステンカ(スチェパン)・ラージンの蜂起」という奴隷となっていた農民の反乱が起きます。 ステンカ・ラージン(1630–71)の反乱は、モスクワの南部から起こって、ロシアは火の海となり、ロシア帝国の軍隊は敗北を重ねます。その結果、ピョートル大帝は軍隊の近代化を図る必要があると考え、フランスやイギリスを訪れ、学ぼうとします。こうしてロシアの近代化、つまりヨーロッパ化が促進されたのです。それまではビザンチン、さらに言い換えればアジア的ロシアでした。 ロシア人は長期にわたってビザンツ文化圏にありましたが、モンゴルが侵入してきた時に生まれたタタール文化も浸透していました。 それが、日本の明治維新と同じように、一気に西欧化したのです。 一気に西欧化するロシア ロシア人は当然、急速な変化に違和感を持つのですが、ロシアは西欧化で強国になります。それまで強かったスウェーデン、ポーランドに対しては、ポーランドを分割するまでに至ります。 ロシアにとって、歴史的にもポーランドは脅威であって、何度もやられています。スウェーデンも同様でした。そこで西欧化したロシアは、ポーランド、スウェーデンをとことんたたいたのです。そのために手を組んだのがプロイセンです。プロイセンとは、かつて一緒になってポーランドを分割したことがあったのです。 再びポーランドを分割することによって、歴史上の脅威が消えました。そうすることで、ロシアの強国化がどんどん進んでいく。それがピョートル大帝の政策だったのです。 山本新(やまもとしん、1913–80)は、『周辺文明論』(刀水書房、1985年)の中で、ロシアはビザンツの周辺文明からヨーロッパの周辺文明に急転換したため、ヨーロッパ風がなかなか身に付かないと指摘しています。 これは日本人も同じで、長い間、中国文明の周辺文明であったものが、明治維新で突然ヨーロッパの周辺文明になった。だから〝付け焼き刃〞のところがあって、しっかりと身に付いていないところがあります。 ロシアは日本によく似ています。ロシアは中央文明ではなく、ビザンツの周辺文明でしたが、18世紀に西欧文明に切り替えます。日本よりも150~160年ほど〝文明開化〞の先輩です。 だからロシアを知ることは、日本を知ることでもあります。 西欧化で急激に国力を上げる ロシアは、確かに西欧化したことによって、急激に国力を上げました。ロシアはそれまで外国の侵略を受けてきましたが、今度は自ら海外へ侵略することが日程にのぼります。ネルチンスク条約(1689年)を結び、17世紀以降にどんどん東アジアへ侵出し、やがてアジアの果て、オホーツク海へ出ていきました。彼らは18世紀の後半には日本近海に出没し始めました。 ロシア人が日本に来たのはかなり早い時期でした。頻繁に現れるようになったのは、19世紀前半で、日本以外の地域でも南下を進めます。黒海地域のオスマン・トルコの衰退とともにその地域に侵入し、やがてカスピ海周辺、アゼルバイジャンの一部を併合しています。 アゼルバイジャンがロシアに併合されたのは、ナポレオンがロシアを侵攻していた頃で、ペルシャからロシアが取った(1813年)のです。 この地域は、オスマン帝国とペルシャの衰退が18世紀を象徴しています。その空隙をぬってロシアの南下が始まるのです。その過程でアゼルバイジャンもロシアの支配下となります。 アゼルバイジャン人は、アゼルバイジャン本国よりも隣国イランにたくさん住んでいます。イランのほうが多いくらいですが、これはペルシャから引き裂かれて分断されてしまったからです。 南のアゼルバイジャン人は当時、そのままペルシャに留まりました。 このようにロシアが南方へと拡大してくると、ヨーロッパも放置しておくわけにはいかなくなります。アレクサンドル1世は1814年の4月、パリに、ナポレオンを撃退した勝者として入って来ます。 多くの西欧人は、ロシア人のような田舎者に西欧の都・パリを占領されることに怒りを覚えたと思います。フランス人は、それまでロシアなんて国に関心がなかったのですが、ここからは重要な国になります。脅威すら抱くことになったのです。 19世紀の前半からは、こうした「ロシア脅威論」が起こります。弱いと思っていたロシアがパリを占領する。やがて、メッテルニヒのウィーン会議によって、ロシアが大国として対峙するようになります。その後、ロシアはどんどん力を持つようになるのです。 この脅威について、ヨーロッパの人々は「東側から得体の知れない人々がやって来る」と語りました。これはのちに「イエローペリル(黄禍)」と呼ばれるものの始まりです。イエローペリルは、ロシアを〝タタールの末裔〞と考えるところから発しています。モンゴルの血が入っているということです。「日が昇る国」アジアとは、ロシアから東を指しています。一般的な外見の問題とは別に、ロシア人は非ヨーロッパ人とみなされたのです。 地理的な問題だけではない そう考えると、アジアという言葉の意味が、単に地理的なものではなく一種のイデオロギーの問題だということに気づきます。人種や文化というものは、むしろそう決め付けるイデオロギーであるということです。ヨーロッパに対する侵入者たちは、基本的にアジアということになります。 「ロシア人はアジア人」というのは、先ほどのタタールの末裔、モンゴルのイメージとロシアのイメージが重なり合っています。 コサックのイメージです。モラルのない非文化的で野蛮な人々というイメージは、ナポレオンを追撃したコサックに対してのイメージでした。 こうした東に対する脅威は相対的なもので、最も西にあるフランスから見ればドイツ以東はアジアで、ドイツから見ればポーランドがアジアになる。「アジア」が軽蔑のレッテルとして使われ始めたということになります。 もっと記事を見る

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