次々と予想が的中!源実朝は「シャーマン的な司祭王」だった!? 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第41・42話

次々と予想が的中!源実朝は「シャーマン的な司祭王」だった!? 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第41・42話

源実朝はスピリチュアルな将軍だった!? 『頼朝と義時』 (講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。今回は、先週放送の第41話「義盛、お前に罪はない」、昨日放送の第42話「夢のゆくえ」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第41話では和田合戦、第42話では源実朝の唐船建造が描かれた。和田合戦での北条義時の謀略に戦慄した源実朝は、義時と距離をとり、朝廷と協調する独自の政治路線を推進する。後鳥羽上皇に心酔する実朝と、御家人たちの利益を第一に考える義時との軋轢は深まる一方であった。歴史学の観点から第41・42話のポイントを解説する。 和田合戦の勃発 建暦3年(1213)5月2日、和田義盛らは150騎で挙兵した。『吾妻鏡』によれば、八田知重(八田知家の子)が近隣の義盛邸に軍勢が結集していることに気づき、大江広元に通報した。 広元は将軍御所に向かったが、同じ頃、三浦義村も義盛の蜂起を義時に報告した。囲碁をやっていた義時は少しも動揺することなく将軍御所に向かい、まず政子と実朝夫人を鶴岡八幡宮に避難させた。 同日申の刻(午後4時ごろ)、義盛軍が御所に押し寄せてくると、北条泰時らが防戦したが、和田方の朝比奈義秀が門を破って南庭に侵入し、御所に火を放ったため、実朝・義時・広元は頼朝の墓所である法華堂に逃れた。なお義時邸も攻められたが、義時の家人たちが奮戦して守り切った。 けれども藤原定家の日記『明月記』建暦三年五月九日条によれば、実朝は大江広元の急報によって法華堂に逃れ、政子・実朝夫人も広元・三浦義村の知らせによって逃れている。『吾妻鏡』の記述は、義時が実朝・政子の退避に貢献したと主張するために、『明月記』の記述を脚色したものと考えられる。 『明月記』同日条によれば、広元が駆け付けた時、御所の警備は手薄で、実朝は宴会を開いており酔っぱらっていたという。また前述のように、義時の初動は遅い。義盛を挑発した割には無策で、機敏に対応できていない。おそらく実朝・義時は、義盛が御所を攻撃することを想定していなかったのだろう。 この時展開されている政治抗争は基本的に義時と義盛の対立であり、義盛は義時邸を攻撃すると、義時は考えていたのではないか。比企氏の変をはじめ、これまで鎌倉で行われた政変において将軍御所が襲われた事例はない。そこに義時の油断があったと思われる。 だが義盛にしてみれば、将軍実朝を自らの手中に収めなければ、大義名分が得られず、反乱軍の汚名を着せられてしまう。真っ先に将軍御所を攻撃した戦略は正しい。 義盛が実朝確保に失敗したのは、同族の三浦義村が北条方に寝返ったからである。『吾妻鏡』によれば、義村は挙兵に同意し、起請文を書いて御所の北門を固めることを義盛に誓ったにもかかわらず、約束を破って義時についた。 これによって御所を包囲して実朝を捕らえる義盛の目算は崩れ、義時は虎口を脱した。後代に成立した説話集ではあるが、『雑談集』や『古今著聞集』も、義村の衝撃的な裏切りを和田合戦の核心として重視している。 義村が従兄の義盛を裏切ったのは何故か。『明月記』は、両者が以前から対立関係にあったと指摘している。三浦一族の惣領である義村にしてみれば、自分よりも威勢をふるう義盛の存在が面白くなかったのだろう。義村が義時と母方の従兄弟の関係ということも、大きく作用したと見られる。 和田氏の滅亡 和田勢は懸命に戦ったが、兵馬の疲れが限界に達し、いったん鎌倉沿岸部の由比ヶ浜まで退却した。翌3日の寅の刻(午前4時ごろ)、南武蔵の有力御家人で淡路守護も務めていた横山時兼が娘婿の波多野盛通、甥の横山知宗らを率いて腰越まで進み、やがて和田勢に合流した。 横山時兼の伯母が和田義盛の妻となっており、時兼の妹は常盛(義盛嫡男)の妻であった。横山氏はこの縁戚関係に基づいて義盛に味方したと考えられる。 横山氏の祖である経兼は源頼朝の遠祖である源頼義に従って前九年の役に参戦している。すなわち横山氏は河内源氏譜代の家人である。 時兼は奥州合戦で藤原泰衡の梟首に関わるという重要な役割を果たしている。 畠山重忠の滅亡後、時兼は武蔵で最大規模の御家人になったと考えられる。北条時房が武蔵守となり、武蔵で勢力を拡大していることに危機感をおぼえ、義盛に加担したという側面もあろう。 さて『吾妻鏡』によれば、和田義盛と横山時兼は5月3日に挙兵すると約束していたという。義盛は時兼を待たずに開戦したことになる。実朝・義時側の戦争準備が整っていないうちに将軍御所を攻めた方が得策と判断したのだろう。事実、義時の対応は遅れた。しかし、三浦氏の裏切りによって実朝の確保には失敗したのである。 時兼の合流により、和田勢は3000騎に膨れ上がったと『吾妻鏡』は記す。いささか誇大な数字に思えるが、ともかく和田方は援軍によって盛り返し、攻勢に転じた。和田方の中核は、和田一族と、横山氏ら武蔵武士、土屋義清ら東相模の武士たちだったようである。 鎌倉近隣の武士が中心であり、ゆえに義盛は迅速に軍勢を集めることができた。また彼らは幕府創設を支えた御家人たちであり、北条氏の専制への反発が強かったと考えられる。 辰の刻(午前8時ごろ)、曽我・中村・二宮・河村など西相模の武士が鎌倉に到着した。和田方と北条方のどちらにつくか迷っていたところ、法華堂に陣取る実朝が自らの花押を据えた動員命令書を送り、彼らを北条方につかせた。将軍実朝の存在が北条方の切り札であったことが分かる。『愚管抄』も、実朝が積極的に指揮をとったことが勝利につながったと記している。 巳の刻(午前10時ころ)、北条義時・大江広元は連名で武蔵近国の御家人に対し、逃亡した和田方残党の掃討を命じている。命令書には実朝の花押が据えられていたという。この時点では和田方はまだ敗北したわけではないが、武士たちを味方につけるため、北条方の優位を強調したものと考えられる。ここでも実朝の権威を最大限に利用している。 義盛は再び御所を攻撃しようとしたが、鎌倉の主要街道は既に北条方に押さえられており、御所に近づけない。このため、由比ヶ浜と若宮大路で激戦が繰り広げられた。和田勢の必死の猛攻に北条方も難渋したが、和田方の主力武将である土屋義清が流れ矢に当たって戦死したことで北条方の優位が確定する。 勝敗が決したのは酉の刻(午後6時ごろ)で、和田義盛・義直・義重らが戦死し、和田常盛・朝盛、横山時兼らは敗走して行方をくらましたという(『吾妻鏡』)。常盛・時兼らも結局逃げ切れず自害し、和田氏とその与党は滅亡した。なお、流罪となっていた胤長も9日に斬られている。 翌4日、和田方の首が片瀬川の川辺にさらされたが、その数は234にものぼったという。一方、幕府軍の負傷者は1000余人というから、双方とも1000人以上の兵力を動員した大規模な合戦だったと見られる。 今まで劇中で描かれてきたように、頼朝死後、幕府では内紛が相次いだが、その中でも和田合戦は最大の内戦だった。権力の中枢にいた北条義時があえて大勝負を望むとは思えず、和田義盛の大規模な蜂起は義時の想定を超えていたと思われる。だが義時は、危機を乗り切ったのである。 義時が得たもの 『吾妻鏡』は北条義時の長男である泰時の奮戦を強調しているが、これは同書の北条氏顕彰によるもので鵜呑みにはできない。『明月記』によれば、千葉成胤が精鋭を率いて鎌倉に到着して義盛勢を攻撃し、敗走する義盛勢の退路を三浦義村が断ったことで、決着がついたという。現実には千葉成胤・三浦義村の活躍が勝因だったのであり、北条氏の功績はそれほど大きくない。 しかし幕府軍の実質的司令官は北条義時であったから、和田合戦の勝利は義時の権力拡大に結びついた。『吾妻鏡』によれば、5月5日、義盛に代わって義時が侍所別当に就任したという。義時は政所別当と侍所別当を兼ねることになったのだ。これによって「執権」職が確立したと一般に言われている。 以前の連載 で指摘したように、義時が執権という役職に就いたかどうかは疑わしい。しかし、この時に義時が掌握した権力が、義時の子孫に世襲されていくことは確かである。和田合戦の勝利は北条氏が覇権を確立する上で大きな一歩だった。 翌6日には、義時の家人である金窪行親が侍所の次官である侍所所司に就任した。かつて梶原景時が就任した役職である。 以前試みて果たせなかった、「年来の郎従」を御家人扱いすること に、義時は成功したのだ。 繰り返しになるが、義時の家人、実朝の陪臣にすぎない行親が侍所所司として御家人を統括するということは、義時が一般御家人の上に立ったことを意味する。北条氏は別格の御家人になったのである。 ただし和田合戦を契機に、三浦義村の存在感が増すこと、義時と義村の連携関係が強化されたことも無視できない。和田合戦最大の功労者である義村の権力が伸長するのは当然であり、北条氏一人勝ちというわけではなかった。義時は義村を取り込むことで幕政を安定化させたとも言える。 戦後処理、論功行賞は北条義時・大江広元が主導した。義盛らの所領を没収し、戦功を立てた者に分け与えたのである。義時自身も鎌倉の背後に位置する山内荘などを獲得した。他にも北条一族、三浦一族、大江広元らが多くの所領を得た。 以後、北条義時・大江広元が中心となって幕府行政を推進していく。この時期、広元は政所別当の地位を嫡子親広に譲っていたが、いわば後見の立場で政所に関わり続けた。義時は三浦義村を軍事面のパートナーとし、大江広元を行政面のパートナーとして、盤石の体制を築いた。 実朝の唐船建造 建保4年(1216)6月、東大寺の大仏を再建したことで知られる宋人(中国人)の陳和卿(ちん・なけい)と実朝は面会した。和卿は「あなたの前世は医王山(現在の中国浙江省の阿育王山阿育王寺)の長老です」と語った。 実朝は以前、同内容の夢を見ていたのでこれを信じ、11月には宋(中国)への渡海、医王山参拝のために巨船を建造するよう命じた。義時と広元は諫めたが、実朝は造船を強行した。だが翌5年4月の進水式は失敗し、巨費を投じた渡海計画は幻に終わった。 かつては、政治の実権がない北条氏の操り人形であることに嫌気がさした実朝が日本脱出を図って渡宋を計画した、という説が唱えられていた。これに対して坂井孝一氏は、この唐船建造は「実朝自身の渡宋のためではなく、将軍主導による宋との貿易を切り開くため」だったと主張している( 『鎌倉殿と執権北条氏』 NHK出版、2021年)。 しかし、この唐船建造の逸話は、いかにも説話的で、後世に作られた実朝伝説という印象を強く受ける。軽々に史実と受け止めない方が良いのではないだろうか。 […]

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