「鎌倉殿の13人」 陳和卿「実朝の夢の通り」発言の虚と実 そもそもなぜ鎌倉に? <歴史好きYouTuberの視点【第42回】>

「鎌倉殿の13人」 陳和卿「実朝の夢の通り」発言の虚と実 そもそもなぜ鎌倉に? <歴史好きYouTuberの視点【第42回】>

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の11月13日(2022年)放送回は「第43回 資格と死角」でした。登録者数12万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、「第43回」の関連解説動画で最も熱く語りたかった「ツボ」は? 動画内容を軸に再解説します。次回放送をより楽しむための準備・復習にもお役立てください。(ネタバレあり) 視力をほぼ失いながらも… いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。 今回も大河ドラマの内容に合わせて、歴史的な解説をしていきます。 鎌倉殿の13人第43回『資格と死角』では、三代将軍・源実朝の後継者問題に揺れる鎌倉幕府の様子が描かれましたね。 先代頼家の遺児である公暁が鎌倉に帰還し、次期鎌倉殿に名乗りを上げますが、実朝は後鳥羽上皇の皇子を鎌倉へ迎え入れる構想をたてていました。 皇族将軍の下向を実現させるため、北条政子が上洛(幕府公式の上洛ではなく、表向きは熊野詣として)し、皇子である頼仁親王の養育を務めた女性、藤原兼子と対面しました。 この藤原兼子は、卿二位とも呼ばれ、朝廷の中でも特に身分の高い女性でした。そんな兼子相手に物怖じせずに交渉を行った政子は、政治家としてずいぶん成長した印象を受けました。 ドラマでは、そんな政子の交渉を裏で支えていたのが大江広元でした。広元は、眼病の後遺症で視力をほぼ失っていましたが、その瞼(まぶた)には政子の姿が焼き付いていると豪語するほど、「重すぎる」忠誠心を抱いていました。 歴史上の大江広元も、ドラマのように政子を愛していたのでしょうか? 史料から大江広元の心のうちを知ることは難しいですが、広元と政子の関係性を物語る記録は『吾妻鏡』にも記されています。 大江広元は、実朝暗殺事件の直前に、実朝の不幸を予感して成人してから初めて涙を流したと記されるほどのクールな人物というイメージですが、そんな広元が突如として熱くなった出来事があります。承久の乱です。 北条義時追討の院宣を出した後鳥羽上皇に対し、幕府は抗戦する構えを見せました。しかし幕府軍は、守勢に徹するか打って出るかで戦略がまとまらずにいました。 この時、出陣を主張したのが大江広元です。 長期戦による寝返りを危惧したのかもしれませんが、広元は生粋の文官で、合戦に関してはプロフェッショナルではありません。 それでも政子は広元の意見を採用し、北条泰時が先陣を切る運びとなりました。 広元が出陣すべきと強く主張した理由は定かではありません。もしかすると政子の演説によって、もっとも焚きつけられたのが広元だったのかもしれません。

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