『鎌倉殿』の政子はどうなる? 歴史的「大演説」には“代読プレゼン”説と“同情アピール”説が…

『鎌倉殿』の政子はどうなる? 歴史的「大演説」には“代読プレゼン”説と“同情アピール”説が…

歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義 ──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回は コチラ 北条義時(小栗旬)と北条政子(小池栄子)|ドラマ公式サイトより 『鎌倉殿の13人』第46回のタイトルが「将軍になった女」だったことからも明らかですが、北条政子(小池栄子さん)の存在感が増してきているのが如実に感じられます。闇落ちした義時(小栗旬さん)が「影」ならば、尼姿の政子は「光」を象徴する存在になってきていますね。 第46回では、施餓鬼(死者供養)を通じ、鎌倉の貧しい庶民たちとも触れ合った政子の姿が描かれましたが、とある少女から「伊豆の小さな豪族の行き遅れがこんなに立派になられて、行き遅れが……」などと、政子にはいささか心外な言葉遣いではあったものの、熱い賛辞の言葉を浴びました。「(政子は)憧れなんです。私の友達もみんな言っています」とまで言われており、かつて、政子と頼朝(大泉洋さん)を奪い合った亀(江口のりこさん)から「御台所と呼ばれて恥ずかしくない女になんなさい。憧れの的なんだから。坂東中の女の」と言われていたことを思い出しました。脚本の三谷幸喜さんの考える政子の像が端的にうかがえるシーンだったと思います。 「尼将軍」の呼び方は鎌倉当時にはなく、江戸時代に一般化したものですし、政子は正式に鎌倉殿に就任したわけではありませんが、それでも、当時の女性としては抜きん出た権力を誇った政子を、慈円僧正が天照大神に(皮肉を込めてですが)喩えた記録もあります。九条家という名門出身の慈円の目にすら、政子は“異例のカリスマ”として映ったのでしょう。 慈円の作とされる『愚管抄』には、「女人入眼の日本国(という通説は)いよいよ、まこと也(なり)けりと云ふべきにや」との文言があり、言葉を補えば、「女性の手で物事が完成されるのが日本という国だとする説は、鎌倉の北条政子の例を見ていても、確かに当たっているといえる」と訳せます。政子の影響力の大きさがうかがえる一文です。 九条家から関東に送られた三寅(=藤原頼経)が正式に鎌倉殿に就任するまで、政子が実質的な「四代将軍」として仕事したと考える人は多かったようです。室町時代に成立した「『吾妻鏡』の写本」(国立公文書館所蔵)冒頭の鎌倉殿一覧には、「平政子」として彼女の名前があり、「治八年」――つまり彼女の統治期間は8年に及んだと書かれているからです。 ドラマ第46回では、「尼将軍」となった政子が、阿野時元(森優作さん)の蜂起を煽動した罪を問われ、義時の逆鱗に触れて処刑されそうだった実衣(宮澤エマさん/史実では阿波局)を救ったシーンがありました。確かに史実でもありそうな話だなと思われました。 命は救われたものの、それでも実衣の失望は深そうでしたが、政子はかつて大姫(南沙良さん)が唱えていたおまじないを(相変わらず間違った覚え方で)実衣と唱和し、彼女を元気づけようとしていました。三谷版の政子は「聖母」のような存在といえるかもしれません。 『鎌倉殿』以前のドラマなどの映像作品での描かれ方では、後鳥羽上皇に対して立ち上がろうと御家人たちに訴える政子の演説には“男勝りの女性政治家”のイメージしかありませんでしたが、『鎌倉殿』の政子を見ていると、その人間性によって、演説ひとつで坂東の御家人たちを奮い立たせることができたのかもしれないと思わされます。今回は、次回の第47回で出てくるであろう政子の演説とは実際にどんなものだったのかを考えてみようと思います。 第47回のタイトルは「ある朝敵、ある演説」であり、その予告映像でも政子が御家人たちに直接語りかける姿があったので、次回のドラマの見どころは政子の演説となるでしょう。 しかし、鎌倉幕府の公式史である『吾妻鏡』では、政子は御家人たちを庭に集めたものの、自身は御簾の後ろに控えていただけで、声を発することはなく、彼女が書いたスピーチ原稿を(ドラマではすっかり姿を見なくなった)安達景盛が代読したと書かれています。 その一方で、鎌倉末期~南北朝初期に成立した軍記物語『承久記』における政子は、御家人の前で自ら声を上げて演説をしたとされています。ここで興味深いのは、両書に見られる演説内容の違いです。(1/2 P2は こちら )

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