大河で話題「桶狭間の戦い」織田軍圧勝の2つの訳 今川軍はなぜ敗れたか、歴史的史料から探る

「どうする家康」で信長を演じる岡田准一さん。第1話では桶狭間の戦いが描かれた(写真:「どうする家康」公式サイトより引用) 大河ドラマ「どうする家康」の第1回では今川義元率いる今川軍と織田信長率いる織田軍の激突「桶狭間の戦い」が描かれ、SNSでも話題になりました。なぜ織田軍は圧勝したのか。今川義元の人質であった、松平元康(後の徳川家康)の初陣を振り返りつつ、考察します。 松平元康の初陣は、永禄元年(1558)2月のことでした。元康は尾張の織田方に寝返った寺部城(豊田市)主・鈴木重辰の討伐を、今川義元から命じられたのです。初陣は、松平家臣団を率いてのものでした。 『三河物語』によると、寺部城に押し寄せた松平軍は、外曲輪を突破し、放火したうえで岡崎に戻ったといいます。 その後、梅ヶ坪(豊田市)に進軍した松平勢は、敵兵を打ち破り、二の丸・三の丸を焼き払う。広瀬・挙母(いずれも豊田市)の城へも押し寄せ、敵兵を討ち取り、城の構えを破壊し、放火する。織田方の諸城を攻撃し、孤立させることに成功したのです。 元康の勇姿に松平家臣は感涙にむせんだといいます。「苦しいなかで育たれ、軍略はどうかとずっと心配していたが、清康様(家康の祖父)の威勢とそっくりになられたものよ」と喜びの涙を流したのでした。 初陣の戦功により、山中(岡崎市)の所領は今川家から松平家に返還されました。しかし、元康は岡崎に帰ることなく、駿府にいながら、地元の運営を担当していました。 大事件が起こる そうした元康の立場を変える大事件が、永禄3年(1560)に起こることになります。 同年5月、今川義元が大軍を率いて、織田勢が統治していた尾張国へ侵攻したのです。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長伝記)は、今川軍を4万5000としていますが、さすがに多すぎであるため、2万ほどではないかと言われています。それにしても、今川義元はなぜ大軍を動かしたのでしょう。 長らく通説となっていたのが、上洛説です。『信長記』(1611年に小瀬甫庵が執筆)に、今川義元は天下をとるために挙兵したと記されていたことから、江戸時代以来、上洛説が信じられてきました。ところが、『信長公記』や『三河物語』には、今川義元が上洛しようとしたとは書かれていません。 『信長公記』には、桶狭間の戦いに至る過程が概ね次のように記されています。 信長は熱田より東方の鳴海城(名古屋市緑区)に山口左馬助を入れていた。ところが、山口氏は、信長に謀反心を抱いており、鳴海城に今川方の軍勢を引き入れたばかりか、大高城(名古屋市緑区)や沓懸城(愛知県豊明市)までをも調略で奪ってしまう。 今川義元は、鳴海・大高・沓懸城を守備するため、多数の軍勢を入れ置いた。織田信長もそれに対抗するべく、丹下・善照寺・中嶋・丸根・鷲津(何れも名古屋市緑区)に砦を築く。今川方の鳴海・大高城を分断し、その動きを封じるために、付け城(臨時拠点)を作った。今川方としては、鳴海・大高両城を確保するには、何より両城への補給が必要であろうし、点在する織田方の砦を除去しなければならない。 『信長公記』を見ていると、今川義元出陣の大きな目的はこれではないかと思うのです(もちろん、順調にいけば、尾張国の制圧も視野に入っていたでしょう)。 永禄3年(1560)5月17日、今川義元は沓懸(愛知県豊明市)まで進軍します。元康の役目は、大高城(鵜殿長照)に兵糧を入れる(補給する)ことでした。しかし、織田方の丸根砦と鷲津砦が行手を遮っていました。 そこを松平軍は突破し、兵糧を大高城に運ぶことに成功するのです。これが5月18日のことです。翌日、松平軍は、織田の将・佐久間盛重が守る丸根砦を攻めます。『三河物語』によると「元康、攻めよ」と今川義元からの命令があったようですね。 元康は「生来のせっかち」だった 同書には「生まれつき、気のはやる殿のことなので、すぐに攻めよせる」とあり、元康のことを、生来のせっかちであると記しています。丸根砦はすぐに落ち、敵の「家の子・郎党はほとんど殺した」とあります。鷲津砦もほどなく落ちました。 信長は、清洲城を出て、善照寺砦に入ります(善照寺砦へ進軍中に、信長は丸根・鷲津砦が落ちたことを知ります。ちなみに、善照寺砦は、前述の5つの砦の中でもっとも大きなものでした)。 その頃、今川義元は沓懸城と大高城の間にある桶狭間山で休息していました。5月19日、正午頃のことです。 『信長公記』には、今川義元は鷲津・丸根砦を落としたことに大満足で、謡(能の台詞)を歌ったと言われています。 信長が善照寺砦に向かったことを知った織田方の佐々木勝通と千秋四郎は勇み立ち、兵300ほどで、今川義元の先陣に突撃し、返り討ちにあいます。それを聞いた今川義元は「我が矛先は、天魔鬼神も防ぐことはできない。満足だ」と述べ、またしても謡を歌ったというのです。今川義元がかなり油断していたことがわかります。 その気の緩みは、今川方の武将や兵士にもある程度は伝染していたのではなかったでしょうか。千秋四郎らが討死したことを知った信長は、中嶋砦に向かおうとします。 中嶋砦の周辺の路は狭く、しかも移動中の姿が敵(今川方)に露わになってしまうとして、織田の武将は信長を止めようとしますが、信長はそれを振り切り、中嶋砦に向かうのです。 信長を止める家臣たち このとき、信長軍は2000に足りない兵数だったといいます。信長は中嶋に着くと、さらに先に進もうとするので、家臣はすがりついてこれを止めようとしました。 すると信長は家臣らに次のように言い聞かせたのです。 「今川の武者は、夜通しで大高城へ兵糧を運び、鷲津・丸根砦攻めを行い、疲れ切っている。我らはそうではなく、新手の兵。小勢だからといって、大敵を怖れるな。勝敗の運は天にあり。敵が攻撃してきたら退き、敵が退いたら攻めよ。敵を圧倒し、突き崩せ。分捕り(敵の首や武器を奪うこと)するな、切り捨てにするのだ。ひたすら励め」(『信長公記』)と。 そんな信長が今からぶつかろうとしていたのは、鷲津・丸根砦攻めで疲弊した兵たちではありませんでした。 朱色の鎧を着けた武者を率いて、大高城に兵糧を運び入れ、丸根砦を攻略した元康の軍勢は、前述のように、疲れをとるために、大高城で休息していたからです(『信長公記』)。信長が戦おうとしていたのは、まだ元気な「新手」の今川兵だったのです。 信長が山際まで兵を進めたとき、凄い勢いでにわか雨が降ってきました。大きな楠が吹き倒されるほどの風雨でした。「熱田大明神の神軍」ではないかと思わせるような風雨は、しばらくして収まります。 それを見てから、信長は「それ、かかれ」と全軍に突撃を命じたのです。世間でよく言われたような迂回・奇襲攻撃(甫庵『信長記』)ではなく、信長は正面から堂々と攻め寄せたことが『信長公記』からわかります。 『三河物語』は桶狭間合戦を「敵の徒歩の兵は早くも数人ずつ山に登りはじめるので、義元軍はわれ先にと逃げ出した。義元はそんなことも知らずに弁当を食べていた。油断をしておいでになるうえに、土砂降りの雨であった」と記します。 そして、信長が「3000ほど」で攻めかかると、今川軍は我も我もと敗退し、今川義元は毛利新助により討ち取られたというのです。逃げるところを追い討ちをかけられ、多くの者が死んだと伝わります。 大軍(今川)が少数軍(織田)になぜ敗れたのか? これも昔から議論の対象となってきたことです。迂回・奇襲攻撃でなかったとすれば、なおさら、疑問として残ります。 その疑問を解消するために、さまざまな説が提示されてきました。織田軍が2000~3000よりももっと多かったとする説。江戸時代初期に編纂された軍書『甲陽軍鑑』の記述を基に、今川軍が乱取り(略奪)をしている最中に、織田が攻め寄せてきたのではとする説。さまざまな説があります。 ただし『甲陽軍鑑』は見直しは進められているとは言え、事実誤認もあるとして、史料として使うには問題視される場合もあります。 今川軍大敗の2つの要因 『信長公記』や『三河物語』という比較的信用できる史料から考えてみると、今川の大軍の敗因は、1つは油断があったのではないでしょうか。 そして、2つ目は、土砂降りの後に攻撃を受けたということもあるでしょう。物凄い雨は、人間の心を掻き乱し、地面に泥濘を生み、動きにくい状況を作ったはず。また、大軍とはいっても、すべてが戦闘員ではなかったでしょう。 前述したようなことが重なって、信長の攻撃により、混乱状態に陥り、脆くも今川軍は崩れ、敗退していったのではないでしょうか。 『三河物語』は、「元康が殿(しんがり=敗退する味方の最後尾で敵を防ぎ戦う)をしていたら、これほどの大敗北にはならなかっただろう」と想像していますが、元康が桶狭間に在陣していたとしても、結果はそれほど変わらなかったようにも感じます。 最悪の場合、元康も討ち取られていた可能性もありましょう。「大高城の番を元康に命じていたのが、今川義元の運のつき」と『三河物語』は記していますが、元康にとっては幸運なことだったかもしれません。 濱田 浩一郎さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)

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