小島 :『新しい現実』にはこんなエピソードがあります。出版社が書評をヘンリー・キッシンジャーに頼んだところ、キッシンジャーは「長い付き合いのドラッカーさんが耄碌したなどと書きたくないから、お断りする」とジョークを言いながら断ってきたそうです。あの本ではソ連が崩壊過程に入っていると断言しています。崩壊後のソ連がなんらかの理由でヨーロッパに軍事侵攻する可能性が否定できないとも書いてある。 それから『新しい現実』の第1章では、地球環境問題について書いています。環境は人類の生存体系と一体になっているのだから特定の努力では対応できないし、1国でも対応できない。各国が協調して取り組まなくてはいけないと。それから20年以上経ってパリ協定が実現しました。そうした時代をとらえる感覚はすごいなと感じます。 人間社会の洞察者 田中琢二(以下、田中): 私は昨年末にお二人にお会いする機会があり、世界経済の現状やIMFの最近の動向などを語り合うなか、「今こそドラッカーの著作を読んでおくべき」という話をいただきました。なかでも『「経済人」の終わり』や『新しい現実』は非常に深い内容で、現代への警鐘にもなっているし、ご一読をおすすめしますということでした。 私もドラッカーは『マネジメント』ほかいろいろ読んでいましたが、寡聞にしてこの2冊のタイトルを知らなかったので、早速買い求めて読みました。そのとき、これまでに読んだドラッカー氏の経営書も別の視点と心構えで読み直す必要があると直感しました。 ドラッカーはお二人がおっしゃるように経営指南の頂点というだけでなく、人間社会の洞察者で、歴史、文化、政治、哲学と総合的なリベラルアーツの持ち主。『マネジメント』などの経営書と言われる本の内容も、こうした教養に根ざしたものであるという認識に立脚しなければ皮相な解釈に終わってしまうのであって、おそらく私のこれまでの読み方も表面的で技術論的な位置づけだったに違いないと思いました。 小島明/元日本経済新聞社専務・論説主幹。著書に『調整の時代』、『日本経済はどこへ行くのか』などがある(撮影:梅谷秀司) 小島 :『見えざる革命』を読んだあとに実際にドラッカーの話を聞いていると、彼がハウツーを説くマネジメント・サイエンティストではないということがすぐわかりました。でも、エコノミストや経営学の専門家たちの評価は、「彼は素人だ」という見方ですね。 ドラッカーの本には脚注がほとんどない。彼は、何と言いますか、歴史学でいうとアーノルド・トインビーのような、大きな流れを押さえるタイプであって、専門分野を細かくして参考文献をいっぱい集めたような本を書く人ではない。人によっては1冊の本の3分の1ぐらいが脚注で埋まっている本もあります。 そういう縦割の専門家、細分化した専門家から見ると、ドラッカーはどの分野にも属さない、専門家ではないという評価だった。ところが、『見えざる革命』が酷評されたときに、ケネス・ボールディングというコロラド大学の経済学者が絶賛しました。「じつに社会洞察に優れている」と。ドラッカーはそういう人なんですね。 小島 :彼がデビュー作の『「経済人」の終わり』を書き始めたのは20代の半ばで、28歳ぐらいで書き終え、出版されたのは29歳から30歳にかかる頃ですが、そのときに絶賛したのは、あのウィンストン・チャーチルでした。チャーチルはその翌年に首相になってナチに戦いを挑んだのですが、同時に毎年、士官学校卒業生にドラッカー青年の書いた『「経済人」の終わり』を、「これは人生の本だ」と言って全員に配ったというんですね。 ドラッカーが亡くなったのは2005年ですが、2009年に『「経済人」の終わり』は増刷になっているんです。いまだに読まれている。この本は深い思索があるため、読み応えがあります。 本当に社会を洞察し、思索する、偉大な思索家だという感じがありますね。今、世界では権威主義が台頭し、全体主義的な組織の問題、あるいは民主主義の限界が議論されていますが、この本が非常に参考になるのではないかと、今、読んでもそのような実感があります。 「現在」を徹底的に知る姿勢 白川: ドラッカーは非常に多面的な考察をした人ですが、私がドラッカーから学んだことを整理すると、大きく3つあります。1つは、現在起きていることを観察するその姿勢です。社会や人間、組織などに対する同時代人としての観察の深さです。みんな将来何が起こるか、口角泡を飛ばして議論するわけですが、彼はそうではなく、現在起きていることを徹底的に考察する。それが結果として未来を予測することにつながる。そういう姿勢ですね。 白川方明/元日本銀行総裁。主要著書に、『中央銀行 セントラルバンカーの経験した39年』がある(撮影:梅谷秀司) 現在を観察するその姿勢。これ、実は私の関わってきた仕事、たとえば金融政策の仕事もそうですけれども、経済予測よりはるかに難しいのは、今何が起きているかを知ることです。実はこれがわからないわけです。現在を知ることの重要性。これが1つです。 2つめが、政治、体制、イデオロギーといったものではなく、社会を観察する姿勢です。ドラッカーはどこかに「社会現象には社会そのものの分析が必要である」という言葉を書いていました。これを、経済学者やエコノミストと対比すると、彼等にとっては経済が分析の中心にあるわけで、社会というのはなんとなくファジーな概念のように映る。それで結果的に社会の動きを無視する、ないし軽視する。少なからぬ経済学者は経済学というのは社会科学の女王と考えており、社会学などは非常にファジーな学問だという反応になりやすい。 しかし、狭い意味での経済の問題に絞って考えても、社会がどのように反応するかによって経済のパフォーマンスも変わってくる。だから、「経済vs社会」ではなく、経済を規定するものとして社会がある以上、社会を観察する必要がある。社会を理解せずして経済は理解できない。その社会をよく観察しないといけないという、この姿勢です。 白川: 3つめは、ドラッカーは、社会にしても組織にしても、その動きを理解するときに、人間観察からスタートしていること。たとえば、生産性を上げるためにアウトソーシングが大事だと言われますね。では、アウトソーシングをしたらなぜ生産性が上がるのかというその説明として、ドラッカーの本に具体例があって、たとえば病院では、「リネンサービス」や「病院の清掃」をはじめ、広い意味でのロジ周りが少なからぬコストを占めている。 田中琢二/元IMF日本政府代表理事。著書に『イギリス政治システムの大原則』(第一法規)がある(撮影:梅谷秀司) しかし、病院でいくらロジ周りを非常にうまくやった人がいても、その人が病院長になることはない。だけど、それがアウトソーシングされて、それ自体を専門とする会社があれば、どれだけ早くモップをかけられるかなどに長けた人が社長になれる。だから生産性が上がる。それを利用することがアウトソーシングだというふうに書いている。 この説明って言われてみれば当たり前で、それがどうしたと思われるかもしれませんが、要するにそういう理解の仕方、つまり人間の行動からスタートしている。この観察がすばらしい。ドラッカーの本を読むとそういう例がたくさん出ていますよね。もっともその瞬間は「いいこと言っているな」と感じて、すぐ忘れてしまうのですが(笑)。そういう人間観察の魅力ですよね。これを学びました。 エコノミストではなくフィギアマン 小島 :1つエピソードを述べますと、私は一度だけ「小島さん、今何と言った?」と叱られたことがあるんですよ。「エコノミストとして、あなたはどう思うか?」と質問すると、「おまえ、俺をエコノミストだと思うか」と言ってね。「じゃあ、先生、エコノミストをどういうふうに定義しているんですか」と聞くと、「フィギュアマンだ」と言いました。数字だけ見る人です。 ここに人間が6人いるとき、経済学者はこれを「6」としか見ない。しかし、みんな世代も生活も考えも違う。それを忘れてしまって全部数字でとらえる。それがいつの間にか経済学になってしまったと。しかし、そうした経済学ではうまくいかない。人間を見なくてはいけない。組織は、企業も社会もその原点に人間がある。人間が集まって家庭があり、家庭があって社会がある。そのなかでまた組織が生まれて企業があったり、国があったりする。しかし原点は人であると。 田中: 私がドラッカーに学んだことは、もうお二人のお言葉に尽きていますが、あえて今のお話を敷衍して2つ申し上げます。 1つは、世界や社会を「すでに起こった未来」ととらえる姿勢です。ドラッカーさんが『新しい現実』を書いたとき、好意的な書評さえ、この本を未来の予測本と扱ったらしいのですが、それに対してドラッカーは反発をしています。ソ連の崩壊についての予言めいた話も、時代の大要はすでに形づくられていて、新しい現実を描写することが大事なのであって、リーダーたる者は今日の意思決定に、すでに起こった未来を織り込む必要があるんだと書いています。 では、どうしたら、すでに起こった未来を織り込めるか。つらつらと考えてみますと、『新しい現実』の最終章に「分析から知覚へ」という章があります。この方法論の変化に求められるのではないかと、私なりに思っているんです。 ドラッカーは機械的なシステムと生物的なシステムを対比させています。機械的なシステムは分析によって理解することが可能だけれども、生物的なシステムにおいては知覚的な認識こそが大事なのだと。生態系は全体として観察しなければ理解できないので、ドラッカーさんは読者に対して、「考えるとともに見ることを求める」と最後に言っているんですね。現実を見るときには、生態的な観察が必要であると。ここが1つ、私が感動したところです。 卓越したリーダーシップ論 田中: もう1つはリーダーシップ論です。『傍観者の時代』の、ヘンリー・キッシンジャーに関連する記述のなかにリーダーシップ論の本質があるように思います。キッシンジャーは、外交には大人物が必要だと言っていますが、それに対してドラッカーさんは、メッテルニヒやビスマルクのような大人物のあとには空白が生じると書いています。 彼らは頭がいいが、それゆえにやや真摯さに欠ける。本当に必要なリーダーシップというのは勤勉さと献身によって得られるのだと強調しています。権力を集中させずにチームをつくる。あるいは操作ではなくて真摯さによってリーダーになるのだと。 小島 :ドラッカーはリーダーシップをいろいろなところで議論していますね。「リーダーシップというのは権力ではなく責務である」と。それから盛んにリーダーシップ論の基本的な要件、今、田中さんがおっしゃった真摯さに言及しています。一緒にやっている人が必ずしも賛成しなくてもいい。リーダーは真摯で、本気であることが大事であると。 もう1つは、人材をうまく活かすこと。よく似非リーダーは自分のライバルになるような人を弾き飛ばしますね。だけど、それはリーダーとして失格であるとドラッカーは言う。自分を脅かすような人、自分を超えるような人もきちんと評価して使う、それがいいリーダーであると。リーダーはいい人材を発掘し、高く評価することが大事だと、彼の議論や著作その他に出てきますね。 白川: そういうお話と関連するのですが、ドラッカーというのは、いったんその本の魅力がわかると、「ドラッカーはすばらしい」となるけれども、そうじゃない人からすると、かつての私のように食わず嫌いで、軽薄な本だと思うわけです。私の偏見かもしれませんが、その傾向がとくに強いのは経済学者、エコノミストであるように思います。 小島さんがおっしゃったように、ドラッカーの本にはたくさんのレファレンスがあるわけではないし、たくさんの脚注があるわけでもない。それがある種象徴しているのですが、経済学というのは1つの理論モデルがあるわけです。その演繹的な操作である理論モデルがあるけれども、ドラッカーの本にはそうしたものがない。 […]
ドラッカーが「最高の未来学者」と評される所以 チャーチル首相も絶賛した「歴史を読む力」
