聖徳太子はいない? 徳川家康は別人!? 学校では教えない“歴史の真実”

聖徳太子はいない? 徳川家康は別人!? 学校では教えない“歴史の真実”

私たちが学校で学ぶ「歴史」は、その多くが「史実」とされている。ところが、中には史実かどうか疑わしい歴史もあることを、ご存じだろうか? 近年注目を集めているのが、聖徳太子と徳川家康。聖徳太子は「憲法十七条」を制定し、仏教を広めた人物で、徳川家康は戦乱の世を駆け抜け、江戸時代を切り開いた初代徳川将軍であることは、誰もが知っている史実だ。 だが近年、「聖徳太子は実在しない」「修行僧が徳川家康にすり替わっていた」という驚くべき説が浮上している。 今回は『新説 学校では教えない日本史』から、聖徳太子や徳川家康についての大胆な新説とその根拠をご紹介しよう。 ◆聖徳太子に関する様々な謎とは? 日本人にとって、聖徳太子は最も親しみのある歴史上の人物のひとり。かつて、一万円札には太子の像が使われていたが、この像は奈良の法隆寺に伝えられている『聖徳太子及二王子像』をもとに描かれている。しかし、この肖像画は太子と同時代ではなく、時代がかなり下ってから描かれたものである。そのためこの図像を検証するといろいろな疑問が浮き彫りとなる。 まず、肖像画のなかで太子が手に持っている笏だが、これは太子の生きた時代である飛鳥時代には存在せず、正装のとき冠とともに持つようになったのは奈良時代のことである。 太子が着ている装束についても、この服を皇族が着るようになったのは、天武天皇の時代からである。天武天皇の時代といえば太子が亡くなってから約六〇年後の時代である。 さらに、太子の被っている黒い冠は、この装束を着ている際には着用しない決まりだった。奈良時代は朝廷での服装について、その細部にわたって規則があったのである。 あごの髭にいたっては、後世に描き加えられたものらしい。『聖徳太子及二王子像』は、その画風から、唐の肖像画を模して制作されたのではないかともいわれ、近年では教科書からも消え始めているのである。 このように、太子に関する謎は一万円札一枚からもいろいろとうかがうことができるのだ。 そもそも聖徳太子という名前は、後世に贈られ、それが平安時代の半ば以降一般化したものである。存命中は厩戸皇子、上宮王、豊聡耳皇子などと呼ばれていた。 われわれが「聖徳太子」として思い浮かべる人物は、姿も名前も飛鳥時代に政界で活躍した人物とはかなりかけ離れてしまっているのである。 太子は、自ら天皇にならず推古天皇の摂政として政治を行ったとされている。だが、太子自身が天皇になっていたという説もある。 その根拠のひとつが、現存する太子の最古の伝記『上宮聖徳法王帝説』である。帝説とは、「天皇に関する伝記」という意味である。この表題は、伝記の作者が太子を天皇として見ていたことを意味している。 また中国の史書である『随書』倭国伝の記述も、太子が天皇になっていた証拠であるとされる。『随書』に登場する六〇〇(推古八)年の倭国王の名が、男性名なのである。 日本史の上では推古天皇の存位期とされるが、この時期の天皇は男性、つまり政治の中心であった太子が天皇だというのである。 ◆聖徳太子は実在したのか? 諸説ある太子論のなかには、聖徳太子そのものの存在についての疑問を唱える説もある。 歴史学者の大山誠一氏によると「太子の別名とされる、厩戸皇子という人物が存在したのは確かである。 しかしその人物が聖徳太子であったかどうか。太子に関する確実な史料は存在せず、太子に言及している『日本書紀』や法隆寺の史料は太子の死後一世紀も後のものである」という。大山氏の歴史を覆す提起は学界に論争を巻き起こした。 太子の業績とされる「憲法十七条」が、本当は太子自身によってつくられたものではないとも考えられている。 後年、奈良時代の『日本書紀』の編纂者によってつくられたのではないかというのである。聖徳太子の事績とされたものが、別人の手によるものであれば、太子の実在を示す証拠がひとつ消えることになる。 このように、太子の存在について、歴史家によって様々な見解がある。一四〇〇年も昔の人物であるため、それを明確に証明する史料などが見つからない限り存在の有無が確定できないだろう。 しかし、無責任な話だが歴史家でない人にとっては、謎が多くいろいろと推理をすることのほうが楽しいのかもしれない。 ◆変転した家康の前半生 通説では、徳川家康の出自は、父が岡崎城主・松平広忠、母は刈谷城主・水野忠政の娘・於大の方(伝通院)で、幼名を竹千代と称していた。 父・広忠は、駿河の今川義元の勢力下にあり、織田信秀と対立関係にあった。ところが、於大の方の兄・水野信元が織田氏と結び、於大の方は広忠と離別させられた。竹千代が三歳のときである。竹千代は十九歳まで母に会えなかったという。 竹千代は六歳で織田信秀の、八歳からは義元の人質となる。十五歳で元服すると、元信と名乗り、今川氏一族の娘である築山殿と結婚。その後、元康と改名、さらに家康と改名した。 歴史物語やテレビの時代物は、この通説に基づいて家康像が描かれている。 ◆明治に発表された大胆な新説 一八六七(慶応三)年、十五代将軍・慶喜の大政奉還によって徳川幕府はその二六五年の歴史を終え、時代は明治となった。 徳川幕府が倒れてから三五年後の一九〇二(明治三五)年、静岡の官吏であった村岡素一郎氏が『史疑徳川家康事跡』という書物を発刊した。村岡氏はそのなかで、徳川幕府を開いた「徳川家康」は、修行僧出身の者が岡崎城主の松平元康とすり替わった人物だと主張している。 のちに家康となる修行僧の出自について、その父は下野の加持祈禱の流浪者、江田松本坊という修験者で、母は駿府のささら者の娘・於大であるというのだ。ささら者とは、町で竹細工の道具のささらなどを売り歩いていた身分の低い人々のことである。 さらに、村岡氏によれば、竹千代は元康の長男・信康の幼名で、家康の妻とされる築山殿は元康の妻であり、竹千代の母である。 このように「通説」では同一人物とされる竹千代と元康が父と子であることに始まり、のちに家康とかかわることになる人物の相関関係は、常識に囚われていると把握するだけでも大変な説なのである。 流浪者とささら者の子がどのように家康になったのだろう。江田松本坊と於大には国松という子がいた。この子は寺に預けられ、浄慶と名を改め、のちに願人坊主になった。願人坊主というのは、冬に裸で町を歩きまわって、家を訪ねて頭から水をかけてもらう修行をする僧のことである。 浄慶は世良田二郎三郎元信を名乗り松平元康に接近する。松平元康が家臣に殺害されると、元信は元康になりすまして城主となった。これがのちの家康であるというわけだ。 この説は学界では受け入れられず、今日まで「通説」が史実とされている。 しかし、家康の出自については、正史にも不自然な点が多いと指摘されている。 たとえば、新田義貞の一族であるとすることなどに疑問が投げかけられている。家康自身、自分の出自について触れたがらなかったという。 また、家康を神格化するために、幼時に関する記録は粉飾が多いとする説もある。家康の出自について疑問を呈した村岡氏は静岡の官吏であったが、『史疑徳川家康事跡』が発刊される前に罷免された。 この『史疑』をまとめるために公務の合間に駿河・遠州などの各地を調査してまわっていたようだ。静岡(駿河)という土地柄で旧幕府関係者がいて、彼らが村岡氏の動きを察知して圧力をかけたのだろうか。 いかがだっただろうか。歴史とは新たな文献、物証によって、書き替えられてゆくものなのである。では、これまで学んできた〝歴史の事実〟は、どう捉え直せばいいのだろうか? 誰もその時代を間近に見ることはできない。丹念に文献、物証を推察して〝歴史の事実〟を削ぎ落してゆくしかないのである。しかし、その結果、事実に肉薄したかもしれない多くの説が、推論の域を出ないとして淘汰されてもきたのである。 『新説 学校では教えない日本史』は〝歴史の事実〟と思われてきた事柄について、疑問や矛盾を指摘する新説、異説を紹介している。そのなかには、学校では教えない〝歴史〟も多く含まれている。読者は思いもよらない〝もうひとつの歴史〟に触れるだろう。 何が〝事実〟なのか? […]

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