歴史学にとっての「事実」と史学に基づいた「物語」とのズレを調整し、「良質な物語」をつくるためにはどうすればいいだろうか(写真:Chinnapong/iStock) 慰安婦問題や徴用工問題など、日韓間で幾度も繰り返される歴史認識問題。さらには自国に都合よく歴史を捉える歴史修正主義も蔓延している。 これらの歴史問題が炎上する背景には何があるのか。また、アカデミズム、メディア、そして社会は、歴史問題にどう向き合えばよいのか。このたび『 教養としての歴史問題 』を上梓した、前川一郎、倉橋耕平、呉座勇一、辻田真佐憲の4人の気鋭の研究者による同書の座談会部分を抜粋してお届けする。 第3回は、商業主義と歴史の問題、さらにはアカデミズムやジャーナリズムが果たすべき役割について議論する。 強調されるのは「被害者視線の歴史観」 前川 :前回の終わりに、学校外で歴史をどう伝えていくかという問題が提起されました。そうすると、また商業主義や大衆文化の話に戻っていくということになりそうですね。つまり、商業主義、大衆社会に浸透する歴史という素材の問題ですね。 『教養としての歴史問題』(書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします) 私が最近なんだか危ういなという感覚を持ったのは、『この世界の片隅に』の大ヒットなんです。コミックス、映画、ドラマ、アニメと、まさに歴史総合エンタメなわけですが、作品としてはいいし、普段リベラルと目されている人たちも賞賛していました。ですので、こんなことを言うのは気が引けるのですが、それでも歴史の物語としてはやはり危ういのです。 と言うのも、あの話は徹底的に被害者の視点で描かれていて、加害のストーリーは丸ごとごっそり削除されているからです。しかも、国の関与をうかがわせるところもある。一昨年には、東京千代田区にある「昭和館」で、これは国立博物館なわけですが、特別企画展が大々的に開かれましたし、TBSでドラマが作られたとき、後援の1つは厚労省でした。 要するに、国の後押しを受けて、辻田さんが示唆されているような「つらい状況を乗り超えた私たち」と同じで、戦争になっても「一生懸命頑張っていればいいことがあるよね」っていう話をしているようなものなのです。それで、戦時下の庶民のけなげな姿勢が淡々と描かれています。 いや、私も映画からアニメから何から全部見ましたが、それはもう感動しますよ。朗らかな顔つきで、じっと耐え忍んでいる姿は涙を誘うんです。感動することで被害者視線の歴史観が刷り込まれていくというパターンで、それは歴史修正主義者の大好きな手法です。 ちなみに、ご存じの方も多いと思いますが、1965年に岩波書店から『この世界の片隅で』という新書が出されています。「に」と「で」の違いだけで、内容も同じ広島の原爆をテーマにしているのですが、作品のメッセージはまったく違います。 岩波版のほうは被爆者の体験集です。しかも、在日朝鮮人が被爆者として二重の差別を受けた実態などが収録されている。これは、被害者視線を借りた、戦争と植民地支配の加害に対する告発文として読むこともできます。 前川一郎(まえかわ いちろう)/立命館大学グローバル教養学部教授。専門はイギリス帝国史・植民地主義史。主な著書や論文に『イギリス帝国と南アフリカ――南アフリカ連邦の形成』(ミネルヴァ書房、2006年)、『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(共著、青木書店、2009年)、「アフリカからの撤退――イギリス開発援助政策の顚末」(『国際政治』<第173号、2013年>)、”Neo-Colonialism Reconsidered: A Case Study of East Africa in the 1960s and 1970s”(The Journal of Imperial and Commonwealth History, 43 (2), 2015)ほか、訳書にジェイミー・バイロンほか著『イギリスの歴史【帝国の衝撃】――イギリス中学校歴史教科書』(明石書店、2012年)などがある(撮影:立命館大学) 前川 :さらに、これまた有名な話ですけれども、高畑勲監督は亡くなる前に、『火垂るの墓』には加害者性がないから、完全な反戦映画ではないといった話をしておられました。 高畑監督は、『火垂るの墓』のあと、日本の中国侵略をテーマにした作品を作ろうとしていたのだけれども、ちょうど中国政府が民主化運動を弾圧するニュースが流れて、会社が企画をボツにしてしまったそうです。 そして結局のところ、それ以前もそれ以降も、日本で作られる戦争映画やアニメは、やはり圧倒的に被害者視線の物語ばかりになっている気がします。繰り返しますが、これでは歴史修正主義者に簡単に持っていかれてしまいます。 すみません、ちょっと話が脱線気味ですが、要するにそう考えると、辻田さんが指摘されている「良質な物語」を作っていくということは、本当に大事だと思うわけです。 ただし、これはこれで課題が山積みです。まず、そもそも「良質な物語」とはどんなものか。そして、これが最大の課題なのですが、それはどうやって作るのか。 学知にできるのはファクトの提供 倉橋 :非常に難しい問題です。朝ドラや『この世界の片隅に』の話が出ましたが、その反対の勇ましいパターンが百田さんの『永遠のゼロ』ですね。これに対抗して、どのように「良質な物語」を提供していけるかについて、ぼくには今のところ回答はありません。辻田さんがおっしゃるように、学知はファクトを提供することはできますが、言い換えると、できることはそこまでだ、ということになるからです。 これに対して、私自身の考えは、ある種メディア論的な見方になりますが、そうなると、重要なのは作り手の意識で、そこが変わらないと、辻田さんが提起されている「健全な中間」という場所にも至らないのではないかと思っています。というのも、歴史修正主義は消費者評価が重要だったと考えているので、同じ土俵で勝負しても仕方がないと思うからです。 […]
大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点
