編集委員 清水美明 前回コラムはこちら>> 解けない謎 年が明けても衝撃が持続している。頭というより体のなかに滞留している感じだ。ある学者はその衝撃を『新世紀エヴァンゲリオン』(放映1995年~)以来と形容したけれど、個人の知的な記憶を生涯レベルで変えてしまう、という意味において、それは誇張でもなんでもなく、とても正しい表現の選択だと思える。ぼくの個人史の上では、学生時代に面食らった精神分析家ジャック・ラカンの『エクリ』(邦訳出版72年~)、神が 敬けい虔けん な老人に息子殺しを命じる『創世記』第22章「イサク奉献」がそれに当たる。歴史学者の保苅実さんが32歳で亡くなる前に書き残した『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(初版出版2004年)。今回は、その衝撃の先へ踏み込んでみる。 亡くなる1年ほど前、本紙文化部記者のインタビューに答える保苅さん(2003年) オーストラリア先住民アボリジニの長老が語る不可解としか言いようのない歴史、侵略行為に先立って白人=カリヤを繁殖させた け、だ、も、の、 が存在したといった恐るべき語り、その驚嘆を痛快に語り、既成の歴史学を楽しげに挑発するこの 稀有けう な本との出合いについて、昨年この場でたくさん書いた。けれども、どうにも書き足りない。そのうえ、どうしてもいろんな人に読んでほしい。そこで11月に本紙解説面でも取り上げてみた。知人と酒を飲む機会があれば、すごい本を読んだんだよ、と話しもした。信頼する人たちが口をそろえて、読んでみたい、と言ってくれた。それでも、まだ書き足りていない。 ただし、いまは、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』から受けた衝撃をともかくだれかに伝えたいという欲求よりも、衝撃のその先へと進まないといけないという奇妙な責任のほうが強い。「オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」というサブタイトルにある<実践>とはなんなのか、どうして歴史に対してそれが必要になるのか、ここを突き詰めない限り、保苅さんが残した無二の仕事を、ユニークなものの考えのひとつ、といったレベルで放置してしまうように感じられてしかたがないのだ。 アブラハムは、動物を丸焼きにして神に捧げる儀式「燔祭(はんさい)」に基づき、わが子イサクをほふろうとした。レンブラント・ファン・レイン『イサクの燔祭』は、アブラハムの信仰心がよくわかったというので、差し向けられた天使がすんでのところで殺害を止めに入る場面を描いている。アブラハムの「え?」という表情を見ていると、なんとも言えない気分になる 別の理由もある。衝撃は連鎖すると前回書いた。しかし真の衝撃はそれだけで終わることはない。それはつねに理解を超え、謎めいている。難解な謎があるゆえ、強い衝撃が生じると言い換えてもよい。そしておそらく、残念ながら最後まで解き明かせない。それほどの謎だからこそ、衝撃というものが走る。そんな謎を前にしたとき、ぼくたちは二つの態度を取るしかない。衝撃に浸る。それはそれでよい。けれども、たとえば若いころ、性愛や生死や暴力といった解けない謎と格闘したとき、ふいに世界がそれまでとまったく違った表情をしていることに気づいたことはないか。慣れ親しんだ世界がゆがんで見える。これほどゆがんだ世界がどうしてまともに見えているのか。謎が解けないのは、どうやらぼくたちが暮らすこの世界のほうに理由があるんじゃないのか。エヴァンゲリオンであれ、ラカンであれ、アブラハムであれ、解けない謎のパラドックスのようなものを、みんな薄々感じ取っている。整合を装うためにこの世界が切り離した別の選択肢。その痕跡こそが謎であり、引き起こされる感覚の名が衝撃だ。だから、衝撃の体験者たちは、衝撃に浸ることをむしろあきらめ、その先へと進まなくてはならなくなる。 歴史と愉楽 グリンジと呼ばれるアボリジニのグループが暮らす村に受け入れてもらった保苅さんは、狩りや儀礼への参加も許され、長老ジミー・マンガヤリさんらから、大地や人間や侵略をめぐる歴史を教えてもらった。その経験と理解を書き留めた『ラディカル・オーラル・ヒストリー』のあとがきには、おそらく死の直前に書いたと思われるこんな一節がある。 「歴史は楽しくなくちゃいけない。(中略)ジミーじいさんをはじめ、グリンジの人々は、よく笑っていた。苦しかった植民地経験を語りながら、 白人カリヤ の不正義に怒りをあらわにしながら、それでも、歴史語りはどことなくユーモラスに、笑いを伴ってなされることが多かった。(中略)ほとんどの歴史はむしろその深刻さに特徴があるといってもいい。しかし、そこには、 歴、史、で、あ、る、こ、と、そ、れ、自、体、の、楽、し、さ、 がある」(ルビ・傍点は著書) 白人の侵略がどうして可能になったかを説明するチャート図。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(岩波書店)から 楽しさの根源はなんだろう。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』に頻出する不思議な図の数々がその解を与えてくれるかもしれない。それはジミーさんが地面に描いた図を基に、保苅さんが解説を加えたものだ。ぼくたちが理解している地理や歴史からはほど遠い。だけどちゃんと理にかなっている。慣れ親しんだ、当たり前のようにあるこの世界ではなく、異質な整合性を持つ別の知性による解像が働いてできあがった図なのだ。ぼくたちの頭ではとうてい思いもつかない理論が駆動している。たとえそれがイギリス人たちによる略奪と 殺戮さつりく の歴史にまつわる図であっても、ぼくたちはここに愉楽を感じる。限られた世界でのみ成立する歴史が、分かりやすさや、正確さといったものと引き換えに失ったものを回復してくれているからだ。それに気づけるからだ。 いい機会なので、もっと本質的なことを考えておこう。人間という生き物には、定常や不変を志向する、強くて、ときにまずい癖がある。この日常がこのまま続くものと想定したがる。これを発展させて、普遍や永遠といった観念が産出されてきたし、社会の取り決めの多くは、人・物・数あらゆる存在の安定性を前提としている。しかし、これらを揺さぶるものがある。<時間>だ。それは、容赦なしに変質と崩壊を生み、安定と常態を 撹乱かくらん する(親に子を差し出させる力を持つ神でさえ、時間を止めたり、巻き戻したりはしない。創造した世界が気にいらない場合、神は、洪水を起こし、ちゃらにする!)。時間というものがあるがゆえに、瞬間ごとに入力と出力が変動し、存在の不安定性が発現し、予測を困難にさせる。それが暴力的な形で現れる典型的出来事が災害なのだと何度かこの場で主張してきた。 大洪水を逃れた人間や動物を描いたサイモン・ド・マイル『アララト山に着いたノアの箱舟』。アブラハムはこの子孫にあたる 反転して考えるなら、ぼくたちは日々、時刻に縛られて生きているようでいて、時間については、その撹乱の力を意識しないですむ、飼いならされた形式に変換された日常を生きている、ということができる。ところが、この人間という奇妙な生き物は、厄介な<時間>をあえて思考の中核にセットした営みをずっと続けてきたことに気づく。時間が引き起こす数奇や 翻弄ほんろう 、 轍わだち にはまるようにして厄災に向かっていく人間のもがき、奇跡のような 僥倖ぎょうこう に心を奪われながら、それを営んできたと。歴史を語ることだ。 科学技術や社会工学がどれほど高度化しようと、時間がもつおぞましい力をだれも、なにものも逃れることはできない。ここに最大の衝撃と謎がある。だからこそ人類は、教訓とか、系譜とか、権威づけとか、アイデンティティーとか、よくいわれる目的を差し置いても、歴史を繰り返し語ろうとしてきたのではないか。ぼくたちを完全に包み込んでいる時間の謎へと接近することに、純粋な楽しみを感じているからではないのか。 世界の再解像 史料や裏付けによって支えられる歴史学の歴史でさえ、その中核には当然のことながら、時間の撹乱がセットされている。それは入力と出力を刻々と変化させ、定点とみなしたものを揺さぶる。ゆえにそれぞれの歴史語りたちが、謎に挑むことに愉楽を感じながら、もつれ合う因果関係に分け入り、着目も判断も解釈も多様化させることになったはずだ。ところが、分かりやすさや、正解、一致といったものを求める整合に重心が偏った途端、歴史学は時間の撹乱性を軽視するようになる。なかには、歴史は固定したものだとみなし聖域扱いし、新たな考察を毛嫌いするような者が現れる。歴史をいじくり回すな、などと。かくして、時間が抱える本来の分かりにくさ、不確定性の魅力が死に、楽しみが消え、ありていに言うと、書かれたものがことごとくつまらなくなる。 アボリジニの歴史にも整合性はある。しかし、それはとても撹乱的だ。白人たちはどうして、アボリジニを殺し、大切な大地を奪えたのか。彼らが到達した納得のいく結論のひとつは、白人は同じ出自の生き物ではないから、というものだ。すると、白人たちの語る進化論や侵略の歴史は大きくゆがみ始め、増殖と殺戮と収奪を可能にする異様な進化史と、のちに土地の返還をもたらすミステリアスな米英史が出現する。彼らにとってすべての根源である大地も、それに根差した時間も、撹乱的であると同時に融通 無碍むげ だ。オーストラリアの真南にイングランドはないが、地球儀をぐるりと回した先にある島国ではあるのだ。 買い物という行為を繰り返す人間を介し、コンビニを活用しているカラスもいる。ベンチが意図せず待機場所となり、雨と傘の組み合わせが絶好のタイミングを用意する 硬直した整合性に支配された歴史と、ジミーじいさんがときに楽しげに語る歴史を、並列で語ることができる場所はあるのだろうか。保苅さんは、アボリジニの語り、あるいは自分の営みについて、こう書く。「学術的歴史学の立場からしてみれば、もう無茶苦茶なことになってしまうんですよ。動物は話しかけてくるは、植物は話しかけてくるは、場合によっては、石だって歴史を語りだすわけです」(『ラディカル・オーラル・ヒストリー』) これを容認する方法はひとつしかないような気がする。人が特権を持たない歴史、人を必要としない世界、そのようなものを思考すること。異なる世界観を認め合うためのベースを共有する。世界を成り立たせ、人間を生かしている時間と場所、この二つの次元の下で、動物も植物も鉱物もあらゆる事物に等しい位格を与え直す。そのとき世界も歴史もようやく再解像可能になって、ぼくたちの偏った世界像・歴史観によって失われた愉楽を取り戻す道が開けるのではないか。たとえば、「微生物を発見した人間だけではなく、微生物にも歴史性を付与する」(ブルーノ・ラトゥール『科学論の実在―パンドラの希望―』)。これこそ歴史の実践、あるいは世界の探究なのではないか。 場所の力 うらやましくなるような雰囲気の中で、街中での発見が次々と披露されていく清水さんの授業(慶応大・湘南藤沢キャンパスで) […]
この<まち>の下の記憶(33)…歴史・場所・事物
