伊達政宗の花押に新説――使用時期が逆転?書状内容の矛盾から見直しへ

戦国時代の名将・伊達政宗(1567〜1636)は、数多くの書状を残しており、それに押された花押(かおう)は政宗の生涯を知るうえで重要な史料となっています。従来、政宗の花押は新しいものが登場すると、それ以前のものは使用されなくなると考えられていました。しかし、最近の研究によって、その使用時期に関する新たな説が浮上しました。

花押の時系列に疑問――従来説と書状内容の矛盾

山形大学の松尾剛次名誉教授(日本中世史)は、書状の内容と花押の種類を分析した結果、従来の花押の使用時期に矛盾があることを指摘しました。政宗が家督を継いだ1584年(天正12年)前後の書状には日付が明確でないものが多く、花押の形状を手がかりに年代を推定するのが一般的でした。

従来の見解では、1584年に使用された政宗の花押は以下のような順序で変遷したとされていました。

  • 第1型(最古の花押) …1584年4月3日〜19日
  • 第2型(次に使用された花押) …1584年8月13日〜11月24日

しかし、1584年10月12日付の書状に「第1型」の花押が使われていることが確認されました。もし「第2型」が「第1型」より新しいものであれば、この日付の書状に古い花押が使われるのは不自然です。この矛盾により、従来の時系列に再考の余地が生まれました。

決定的な証拠――1584年の戦況と食い違う書状

さらに松尾名誉教授が着目したのは、「第2型」が押された1584年8月14日付の書状でした。この書状は、政宗と父・伊達輝宗が連名で、義父・田村清顕(たむら きよあき)に宛てたもので、内容は「田村清顕が塩松(福島県)で大内定綱(おおうち さだつな)に攻め入り、大勝利を収めた」というものでした。

しかし、この「大勝利」という記述が問題となります。史実によると、田村清顕は1584年6月以降、大内定綱と何度も戦っていますが、いずれも敗戦しており、「大勝利を収めた」とは考えにくいのです。

この矛盾から、松尾名誉教授は「第2型」の花押が実際には1584年ではなく1583年に使われた可能性が高いと判断しました。つまり、これまで1584年のものとされていた「第2型」の花押は、実は「第1型」よりも前に使用されていた可能性があるのです。

花押研究がもたらす歴史の再考

この新説により、伊達政宗の最も古い書状は「第2型」が押された1583年8月13日付のものであると考えられるようになりました。これは従来の見方を1年早めるもので、政宗の家督継承前後の動向や奥羽戦国史の研究に新たな視点をもたらします。

花押は単なるサインではなく、その時代の権力者が残した重要な証拠です。政宗の書状に見られる花押の再考が、彼の生涯や戦国時代の東北地方の動向をより深く理解する手がかりとなるかもしれません。

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