豊臣秀吉の朝鮮出兵は「欧州対策」だった?――新たな視点から読み解く晩年の戦略

豊臣秀吉(1537〜1598)が晩年に起こした**「文禄・慶長の役」**(1592〜1598)は、日本史の中でも大きな謎の一つです。日本から遠く離れた朝鮮半島に大軍を派遣し、二度にわたる戦争を引き起こしたこの決断は、一体何を目的としていたのでしょうか?

従来、秀吉の朝鮮出兵は 「大陸侵攻の野望」 として説明されることが一般的でした。しかし、近年では**「欧州対策」** という意外な新説が浮上し、秀吉の晩年の外交・戦略を再考する動きが出ています。果たして、秀吉は単なる征服戦争を企図したのではなく、ヨーロッパ諸国のアジア進出に対抗しようとしていたのでしょうか?


従来の見解:「大陸進出」の野望

豊臣秀吉は、天下統一を果たした後も権力欲が衰えず、中国(明)を征服するという壮大な構想を抱いていたとされています。その第一歩として、朝鮮半島を足がかりに明を攻める計画 を立て、1592年に15万以上の大軍を動員して朝鮮出兵を開始しました。

しかし、戦局は次第に泥沼化し、朝鮮軍のゲリラ戦や明の援軍によって日本軍は苦戦を強いられました。さらに、1598年に秀吉が死去すると、日本軍は撤退し、戦争は事実上の失敗に終わります。

このような流れから、朝鮮出兵は秀吉の 「無謀な野望」「現実離れした征服計画」 の結果と捉えられてきました。


新説:「欧州対策」説とは?

一方で、近年注目されているのが、「朝鮮出兵は単なる大陸進出ではなく、欧州列強のアジア進出に対する防衛戦略だったのではないか?」という新しい視点です。では、この説はどのような根拠を持っているのでしょうか?

① 当時の世界情勢とヨーロッパの影響

16世紀後半、日本はポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国と接触を持ち、南蛮貿易を通じて多くの影響を受けていました。一方、ヨーロッパ諸国は アジア進出を本格化させており、フィリピン(スペイン領)やインド(ポルトガル領)など、次々と植民地化を進めていた のです。

特にスペインは当時、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほど強大な力を誇り、アジアでの覇権を拡大しつつありました。

秀吉はこの動きを警戒し、日本がいずれ ヨーロッパ列強の支配下に置かれることを恐れた 可能性があります。実際、秀吉はスペインに対して警戒心を持ち、フィリピンのスペイン総督に対して「服従しなければ攻める」と警告を発していました。

② キリスト教への弾圧と秀吉の対欧州政策

秀吉が行った 「バテレン追放令」(1587年)は、スペインやポルトガルのカトリック勢力の影響を排除する狙いがあったと考えられます。宣教師を通じたキリスト教の布教は、単なる宗教活動ではなく、欧州諸国の植民地支配の前段階とされることが多かったからです。

特に、スペインが支配していたフィリピンに近い長崎や九州地方では、キリシタン大名が増え、欧州との結びつきが強まっていました。この状況に危機感を抱いた秀吉は、国内のキリスト教勢力を抑えると同時に、アジア全体での欧州の進出をけん制する戦略を立てた 可能性があります。

③ 朝鮮半島の戦略的重要性

もしヨーロッパ諸国が本格的にアジア進出を進めるとした場合、日本にとって最も重要なのは 「本土防衛のための前線基地を確保すること」 でした。そのためには、朝鮮半島を確保し、中国大陸に勢力を拡大することが、欧州に対する最善の防衛策となります。

また、秀吉は朝鮮を支配することで、日本と明(中国)を結ぶ貿易ルートを強化し、経済的な主導権を握ろうとした可能性もあります。

このように考えると、秀吉の朝鮮出兵は単なる「大陸侵攻の野望」ではなく、欧州列強の進出に対する「アジアの安全保障戦略」だった可能性がある のです。


まとめ:秀吉は「無謀な侵略者」か、「アジアの防衛者」か?

従来、秀吉の朝鮮出兵は「夢想的な大陸侵攻計画」として語られることが多かったですが、世界史の視点から見ると、新たな可能性が浮かび上がります。

秀吉が欧州列強のアジア進出を警戒し、朝鮮半島を戦略的に確保しようとしたという「欧州対策」説は、従来の見解とは異なる新たな視点を提供します。もちろん、これが全ての理由だったとは断言できませんが、戦国時代の日本が国際情勢をどのように捉えていたのかを考えるうえで、非常に興味深い仮説と言えるでしょう。

豊臣秀吉は、単なる野心的な戦国大名だったのか、それともグローバルな視点を持つ戦略家だったのか――今後の研究がさらに進むことで、彼の評価が大きく変わるかもしれません。

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