江戸時代の政治家の中でも、田沼意次(たぬま おきつぐ)は革新的な政策を推進した人物として知られている。
彼は商業を重視し、経済を活性化させる「重商主義」政策を掲げ、幕府財政の強化を図った。
その中でも特に注目されるのが、**「蝦夷地(北海道)の開発計画」と「ロシアとの交易構想」**である。
田沼意次は、蝦夷地を単なる辺境の地ではなく、幕府財政を支える新たな経済拠点として活用しようと考えた。
さらには、ロシアとの交易によって、幕府の財政基盤を強化しようとしたとも伝えられている。
しかし、彼の失脚によってこの構想は頓挫し、幕府の対外政策は再び消極的な姿勢へと戻ることになる。
本記事では、田沼意次が企図した蝦夷地開発計画とロシア交易構想の詳細、そしてその影響について詳しく解説する。
① 田沼意次とは?——江戸幕府の経済改革者
**田沼意次(1719年〜1788年)は、第10代将軍徳川家治(とくがわ いえはる)**の側近として権力を握り、1767年に老中に就任した。
彼の政策の特徴は、商業資本の活用によって幕府財政を強化することである。
✅ 重商主義を推進し、貨幣経済を活性化
✅ 長崎貿易を拡大し、海外交易による収益を増やす
✅ 新田開発や鉱山開発を奨励し、新たな財源を確保
こうした政策の延長線上にあったのが、蝦夷地開発とロシア交易の構想であった。
② 蝦夷地の開発構想——田沼意次が描いた「北の経済圏」
1. なぜ蝦夷地に注目したのか?
蝦夷地(現在の北海道)は、江戸幕府にとって**「未開の辺境地」と見なされていた。
しかし、田沼意次はこの地に経済的なポテンシャルを見出していた**。
✔ 豊富な海産資源(昆布・鮭・ニシンなど)
✔ アイヌとの交易による利益
✔ 新田開発や鉱山開発の可能性
田沼意次は、蝦夷地を「幕府の新たな財源」として活用することを目指したのである。
2. 田沼意次の蝦夷地開発計画
田沼意次は、松前藩の独占体制を見直し、幕府直轄の開発を進めようとした。
その中心となったのが、**工藤平助(くどう へいすけ)**の提言である。
✅ 工藤平助の「赤蝦夷風説考」
- 田沼の時代、仙台藩の医師であった工藤平助が、**『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』**という書物を著した。
- これは、ロシア(当時は「赤蝦夷」と呼ばれた)との接触や蝦夷地の開発の重要性を説いたものである。
- 田沼意次はこの提言を受け、蝦夷地開発を本格的に検討し始めた。
✅ 具体的な政策
- 最上徳内(もがみ とくない)を蝦夷地に派遣し、現地の調査を実施(1785年)
- 松前藩の支配を弱め、幕府の直接統治を進める構想
- 蝦夷地の資源開発とアイヌ交易の活性化
田沼意次は、蝦夷地を幕府の直轄地として管理し、海産物を中心とした交易拠点とすることで財政基盤を強化しようとしたのである。
③ ロシア交易構想——江戸幕府の対外貿易戦略
田沼意次は、長崎貿易の拡大にも取り組んでおり、その流れでロシアとの交易を視野に入れていたとも言われている。
1. なぜロシアと交易しようとしたのか?
✔ ロシアは北方の大国であり、蝦夷地周辺に進出していた
✔ 中国(清)との貿易に依存していた幕府にとって、新たな貿易相手国の確保が重要だった
✔ ロシアとの交易によって、蝦夷地の経済を活性化できると考えた
当時、ロシアは極東地域への進出を進めており、田沼意次はこの動きを利用して交易を実現しようとした可能性がある。
2. 実際にロシア交易は実現したのか?
田沼意次の時代、ロシアからの使節が日本に接触を試みた記録がある。
✅ 1766年:ロシア船が千島列島に出現
✅ 1778年:ロシア船が蝦夷地の根室に来航し、日本との交易を求める
田沼意次が存命中にロシア交易が本格化することはなかったが、
彼の政策がきっかけとなり、幕府は後の時代にロシアとの交渉を本格化することになる。
しかし、田沼が失脚した後、幕府は再び「鎖国政策」を強化し、ロシア交易の可能性は閉ざされてしまう。
④ 田沼意次の失脚と蝦夷地開発の頓挫
1786年、将軍・徳川家治が死去すると、田沼意次は急速に失脚する。
これにより、蝦夷地開発計画も頓挫し、幕府の北方政策は消極的な方向へと転換する。
✅ 田沼意次の失脚後、松平定信が「寛政の改革」を推進し、対外交易を厳しく制限
✅ 蝦夷地開発は一時的に停滞し、松前藩の支配が再び強まる
✅ ロシアとの交易交渉は断絶し、幕府の鎖国体制が維持される
田沼の蝦夷地開発構想は、後の幕末期に再評価され、再び蝦夷地の開発が進められることになるが、
もし田沼が長く政権を維持していたならば、江戸時代の日本はもっと早い段階で対外貿易を拡大していたかもしれない。
⑤ まとめ——田沼意次は日本の未来を変えたかもしれない
✔ 田沼意次は、蝦夷地の開発を推進し、幕府財政の安定を目指していた
✔ ロシアとの交易を視野に入れ、江戸時代の対外貿易の可能性を広げようとした
✔ 田沼の失脚により、蝦夷地開発とロシア交易の構想は頓挫した
✔ 彼の政策は、後の時代に影響を与え、日本の対外関係の布石となった
田沼意次の構想が成功していたならば、日本はもっと早く開国していたのかもしれない——。