蔦屋重三郎の時代

年(西暦)出来事
1728年(享保13年)享保の改革を実施していた徳川吉宗が在位中。江戸幕府は財政改革を推進。
1735年(享保20年)本草学者・平賀源内が生まれる。後に蔦屋重三郎と関わる。
1736年(元文元年)元文の貨幣改鋳(金銀の品位を下げる)。物価が上昇。
1742年(寛保2年)江戸で大雨が降り、寛保の洪水が発生。
1745年(延享2年)長谷川平蔵(鬼平)が誕生。後に火付盗賊改として活躍。
1751年(寛延4年)徳川家重が死去し、徳川家治が将軍に就任
1758年(宝暦8年)本居宣長が**『古事記伝』の執筆を開始**。
1760年(宝暦10年)喜多川歌麿が生まれる(推定)
1763年(宝暦13年)蔦屋重三郎が誕生(推定)。
1767年(明和4年)田沼意次が老中に就任し、商業振興政策を推進。
1774年(安永3年)杉田玄白らが『解体新書』を刊行し、西洋医学が日本に広がる。
1775年(安永4年)山東京伝が生まれる。後に蔦屋の支援で洒落本を執筆。
1782年(天明2年)天明の大飢饉が発生し、全国で餓死者が出る。
1783年(天明3年)浅間山が大噴火。火山灰による農業被害が深刻化。
1784年(天明4年)平賀源内が獄死(享年52)。
1786年(天明6年)田沼意次が失脚し、松平定信が老中に就任。
1787年(天明7年)松平定信が寛政の改革を開始。出版規制が強化される。
1790年(寛政2年)寛政異学の禁が出され、朱子学以外の学問が弾圧される。
1791年(寛政3年)山東京伝の『通言総籬』が幕府の弾圧を受ける。
1794年(寛政6年)東洲斎写楽が登場し、役者絵を制作。蔦屋が版元となる。
1795年(寛政7年)東洲斎写楽が突然消える
1797年(寛政9年)蔦屋重三郎が死去(享年34〜35歳)
1798年(寛政10年)滝沢馬琴が『椿説弓張月』を刊行し、読本ブームが始まる。
1804年(文化元年)文化文政時代が始まる(文化の爛熟期)
1805年(文化2年)朋誠堂喜三二が『夷堅志』を出版し、滑稽本が人気を集める。
1806年(文化3年)喜多川歌麿が逮捕される。翌年死去。
1811年(文化8年)曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』の執筆を開始(完成まで28年)。
1814年(文化11年)十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が大ヒット
1823年(文政6年)式亭三馬が死去。滑稽本の人気が低下する。
1825年(文政8年)幕府が**異国船打払令(外国船を無条件で砲撃)**を発布。
1827年(文政10年)滝沢馬琴が失明し、『南総里見八犬伝』を口述筆記で続ける

まとめ

  • **蔦屋重三郎の時代(1763〜1797年)**は、田沼意次の経済政策と、それに伴う町人文化の発展があり、出版業界が活況を呈した時期だった。
  • しかし、**松平定信の寛政の改革(1787〜1793年)**によって、洒落本・浮世絵・読本などへの弾圧が強化され、出版界に逆風が吹いた。
  • **蔦屋の死後(1797年〜1827年)**には、滑稽本・読本が隆盛を迎え、文化文政時代(1804〜1830年)へと移行。

蔦屋重三郎は、まさに町人文化の最盛期を築いた人物であり、彼の活動がなければ、後の読本や滑稽本の発展も違う形になっていた可能性がある。

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