表裏比興の者 謀将 真田昌幸の生涯
第一章:宿命の三男坊と、這い上がった真田一族


のちに天下人たちを翻弄し、「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」——すなわち、敵か味方か分からない、喰えない天才策士と恐れられる男、真田昌幸。彼の波乱に満ちた生涯は、天文16年(1547年)、山々に囲まれた信濃の国(現在の長野県)で幕を開けました。
幼名は源五郎。真田幸綱(のちの幸隆)の三男として生まれた彼には、最初から約束された輝かしい未来など、どこにもありませんでした。
なぜなら、当時の武家の世界において、家督(家を継ぐ権利)を引き継ぐのは当然「長男」の役目だったからです。源五郎の上には、信綱(のぶつな)と昌輝(まさてる)という、文武に秀でた二人の頼もしい兄がいました。三男坊である源五郎が真田のトップに立つ可能性は、限りなくゼロに等しかったのです。
しかし、この「家を継がなくていい三男坊」という気楽な立場が、のちに彼の自由で柔軟な、常識に囚われない思考を育むことになります。
どん底から這い上がった、父と兄たちの背中
源五郎が生まれた当時の真田家は、決して順風満帆ではありませんでした。
それどころか、父・幸綱の代に敵に領地を追われ、一時はすべてを失うという「どん底」を経験しています。
そんな絶望的な状況から真田家を救ったのが、父と兄たちでした。
父:真田幸綱(幸隆)
「甲斐の虎」と恐れられた戦国大名・武田信玄にその才能を見出され、家臣となりました。調略(知略や裏工作)の達人であり、誰も落とせなかった敵の堅城を、一滴の血も流さずに策略だけで落としてみせるなど、信玄から絶大な信頼を寄せられた名将です。
長男:真田信綱
真田家の次世代を担う若きリーダー。父譲りの知略に加え、戦場では勇猛果敢に敵陣へ切り込む、誰もが認める文武両道の「豪将」でした。
次男:真田昌輝
兄の信綱を影のように支え、共に戦場を駆けた実力者。武田家の中でもその武勇は高く評価されていました。
この偉大な父と、完璧すぎる二人の兄。彼らは武田信玄の天下統一という夢を支える、主力メンバーとして活躍していました。
奪われた故郷を自らの知恵と腕っぷしで奪い返し、武田家の中で確固たる地位を築いていく父や兄たちの背中を見ながら、幼い源五郎は育ちます。この時期に彼が肌で感じた「生き残るための知略」と「真田の血の結束」こそが、のちに天下を震撼させる謀将・真田昌幸のベースとなったのです。
次男までの兄たちが完璧だったからこそ、三男の昌幸がどう動いていくのか……ここから物語が本格的に動き出します。
第二章:若き俊英、甲斐の虎に弟子入りす


天文22年(1553年)、わずか7歳だった源五郎(昌幸)は、住み慣れた故郷を離れ、甲斐の国(現在の山梨県)へと向かっていました。名目は、武田家への「人質」です。
戦国時代の人質といえば、いつ首をはねられるか分からない冷遇された存在をイメージするかもしれません。しかし、武田信玄という男のやり方は違いました。信玄は、臣従した国人たちの子供を自分の身の回りの世話をする「奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)」に任命し、次世代を担うエリートとして徹底的に英才教育を施したのです。
『甲陽軍鑑』によれば、この時、源五郎と共に選ばれたのは、金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎といった、のちに武田家の中核を担う錚々たる若者たちでした。
このそうそうたる天才児たちの中で、源五郎はひときわ異彩を放ち始めます。
「我が眼の如き者」——信玄に見出された才能
「源五郎は、私の両目のようだ」
のちに武田信玄は、成長していく昌幸をこう評して絶賛したと伝えられています。
信玄のすぐ側で、お茶を引いたり、手紙を運んだりしながら、源五郎は信玄のすべてを貪欲に吸収していきました。戦の作戦会議で信玄が放つ一言、敵を欺くための緻密な裏工作(調略)、合戦時における陣形の動かし方、そして「人は城、人は石垣、人は堀」という信玄の人間掌握術——。すべてが、少年・源五郎にとって最高の教科書でした。
信玄もまた、この三男坊の鋭い眼光と、物事の本質を見抜く知性に早くから気づいていました。ただの人質としてではなく、自分の直弟子、あるいは未来の軍師候補として、特別に目をかけ、自らの「戦の極意」を授けていったのです。
武田家で過ごした日々の中で、昌幸の知略は磨き上げられていきました。彼が信玄から学んだ最も大きな教訓は、「まともに戦うな。戦う前に勝て」ということです。
信玄の背中から学んだ、真田流の知略
信玄は、力任せに敵をねじ伏せるだけの武将ではありません。合戦が始まる数ヶ月、時には数年も前から敵の内部にスパイを送り込み、味方を裏切らせ、敵の心を折ってから悠々と出陣する。その徹底した「調略の美学」は、かつて昌幸の父・幸綱(幸隆)が最も得意とした戦法でもありました。
「父の血」と「信玄の教え」が、若き昌幸の中で完璧に融合します。
誰もが一歩退くような最強の大名・武田信玄。その圧倒的なカリスマの影で、じっと牙を研ぎながら、のちに徳川家康を恐怖のどん底に叩き落とすことになる「怪物」が、静かに誕生しようとしていたのです。
最高の師・信玄のもとで天才としての頭角を現した昌幸。ここからいよいよ、武田家の若きホープとして実戦の舞台へと飛び出していきます。
第三章:名門「武藤」の継承と、謎めいた京の華


武田信玄のもとで才覚を現した源五郎(昌幸)は、やがて元服し、「武藤喜兵衛(むとうきへえ)」という新たな名を名乗ることになります。
これは単なる名前の変更ではありませんでした。武藤氏とは、信玄の母方の血筋(大井氏)につながる、武田家の中でも格式の高い「親族衆」の名門。その武藤家で、跡継ぎだった息子が早世するという悲劇が起きた際、信玄が直々に「源五郎を武藤の養子にせよ」と命じたのです。
本来、他国から来た人質が、主君の親族の名門を継ぐなど異例中の異例でした。ここには信玄の、ある「狙い」がありました。信玄は、昌幸の突出した才能を誰よりも高く評価しており、彼を真田家という一地方の豪族に留めておくのではなく、武田家の直臣、それも自分の手足となって動く中枢の幹部(親族衆)として生涯手元に置いておきたいと強く願ったのです。
こうして名門の家督を継いだ昌幸は、若くして「足軽大将」に抜擢されます。
彼に与えられた軍役は、騎馬15騎、足軽30人。総勢100人を超える部隊を率いる指揮官として、昌幸はついに戦国という表舞台へ第一歩を踏み出したのです。
運命の出会い——麗しき妻「山手殿」
武藤喜兵衛として新たな一歩を踏み出した昌幸の前に、もう一つの運命が訪れます。
永禄7年(1564年)頃、彼は生涯の伴侶となる女性を妻に迎えました。のちに真田信之・真田信繁(幸村)という、歴史に名を残す偉大な兄弟を産むことになる「山手殿(やまのてどの)」です。
彼女の出自には、戦国ロマンを掻き立てる、ある大きな「謎」がありました。
一説には、京の最高峰の公家(大臣を出す家柄)である菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘と言われています。もしこれが事実なら、地方の武士にすぎない昌幸のもとへ、雲の上の存在である京のお姫様が嫁いできたことになります。当時、武田信玄は京の都へ上る(上洛)夢を抱いており、京都の公家衆と深い繋がりを持っていました。信玄が、お気に入りの愛弟子である昌幸のために、京の最高級のコネクションを使って最高の美女をプロデュースした……そんなドラマチックな背景が想像されます。
(※近年の研究では年齢の矛盾などから公家の娘という説には疑問も持たれていますが、彼女が洗練された気品を持ち、昌幸の激動の人生を陰で支え続けた、ただ者ではない女性であったことは確かです)
信玄からの誰もが羨むほどの信頼、そして京の薫りをまとった美しき妻。
若き武藤喜兵衛(昌幸)は、まさに武田軍団の若きエースとして、輝かしい絶頂期を突き進んでいました。しかし、戦国の世は非情です。彼が愛した偉大な師、そして信じ合っていた兄たちとの別れという、過酷な運命の嵐がすぐそこまで迫っていたのです。
信玄に実力を認められ、順風満帆に見える昌幸ですが、この後に武田家の運命を大きく変える大合戦(川中島や三方ヶ原など)、そして昌幸自身の運命を激変させる「長篠の戦い」へと向かっていくことになります。
第四章:龍虎激突の証言者——15歳の初陣と、若き重臣への階段


名門・武藤家を継ぐ前後、昌幸の人生の幕開けにふさわしい、日本史上に残る大決戦が勃発します。
永禄4年(1561年)9月、武田信玄と「軍神」上杉謙信が激突した、世にいう「第四次川中島の戦い」です。
『甲陽軍鑑』によると、このときわずか15歳の昌幸(当時は源五郎、あるいは元服直後の喜兵衛)が、足軽大将として出陣していたと記されています。
これ以外の歴史資料に残っていないため、本当に戦場にいたかどうかは現代の歴史家たちの間でも意見が分かれています。
しかし、元服(大人の仲間入り)を迎える年齢であり、信玄の側近だった昌幸が、この世紀の決戦に同行していなかったと考えるほうが不自然かもしれません。
もし、昌幸が本当にこの場にいたとしたら——彼は、歴史の特等席にいたことになります。
霧のなかから現れた軍神、そして「一騎打ち」の衝撃
この戦いは、上杉軍の奇襲によって武田の本陣が突かれ、大混乱に陥るという大激戦でした。
濃霧が晴れた瞬間、白頭巾をかぶった上杉謙信が馬を飛ばし、手薄になった信玄の本陣へ単騎で突っ込んできます。
光る刃が振り下ろされ、信玄は座ったまま軍配(指揮を執るうちわ)でそれを受け止める——。教科書にも載っているあの有名な「龍虎の一騎打ち」です。
信玄のすぐ側につかえていた15歳の昌幸は、目と鼻の先でこの光景を目撃し、激しい戦慄を覚えたはずです。
命のやり取りが一瞬で決まる戦場の恐ろしさ、そして「無敵」と信じていた師・信玄が、あと一歩で討ち取られそうになった絶望的な瞬間。
このとき昌幸が肌で感じた「生と死のギリギリの境界線」こそが、のちに彼がどんな窮地に立たされても決して動じない、強靭な精神力を育んだに違いありません。
伝説の宿老たちと並ぶ、異例の「大出世」
川中島の地獄を生き延びた昌幸の評価は、その後もうなぎ登りに上がっていきました。
永禄9年(1566年)の春、甲府の寺で開かれたきらびやかな歌会では、信玄の配膳役という、信頼された側近にしか許されない大役を務めています。
さらにその翌年、大きな事件が起きます。信玄の息子である武田勝頼に、跡継ぎとなる男の子(信勝)が誕生したのです。これをお祝いするため、信玄は高遠城(長野県)へと使者を送るのですが、そのメンバーが凄まじい顔ぶれでした。
山県昌景(武田最強の赤備え部隊を率いる猛将)
馬場信春(「不死身の鬼美濃」と恐れられた歴戦の智将)
内藤昌豊・土屋昌続(信玄の頭脳を支えた最高幹部たち)
この、武田家を代表するオールスター(譜代宿老・重臣クラス)の中に、まだ20歳そこそこの若者だった昌幸が、肩を並べて名を連ねていたのです。
これもまた『甲陽軍鑑』が伝えるエピソードではありますが、これが事実なら、昌幸は若くしてすでに「武田家を背負って立つトップリーダーの一人」として認められていたことになります。
父の七光りではなく、自分自身の知略と川中島での働きによって、誰もが認めるエリートへと登り詰めた昌幸。
しかし、この若き俊英を待っていたのは、武田家の滅亡という、あまりにも残酷でドラマチックな運命の暗転でした。
宿老たちと肩を並べるまでの存在になった昌幸ですが、この後、いよいよ武田家に最大の危機(信玄の死、そして長篠の戦い)が訪れることになります。昌幸の人生がガラリと変わる瞬間ですね。


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第五章:信玄の「両眼」となった男——戦場を駆ける若き獅子


永禄12年(1569年)10月、武田信玄は宿敵・北条氏の待つ小田原へと軍を進めました。
その帰路、激しい追撃戦となった「三増峠(みませとうげ)の戦い」で、22歳になった武藤喜兵衛(昌幸)は、緊迫する戦場を縦横無尽に駆け巡っていました。
名将・馬場信春率いる先陣へと、信玄の命を伝える「使番(つかいばん)=伝令将校」を務めたのです。
戦況が刻一刻と変わる大混戦のなか、昌幸はただ伝令を通すだけでなく、自ら槍を執って敵陣へ突撃。
『甲陽軍鑑』には、この戦いで昌幸が「一番槍」の武功を挙げたと記録されています。知略の男と思われがちな昌幸ですが、若い頃は誰よりも勇敢に最前線で刃を交える、熱い武骨者でもあったのです。
のちの江戸時代、天才浮世絵師・歌川国芳が『川中島百勇将戦之内』という作品の中で、若き日の昌幸の雄姿を描いたのも、こうした戦場での華々しい活躍が伝説となっていたからに他なりません。
霧の中の偵察——「我が両眼」の真実
元亀元年(1570年)、武田軍が伊豆の韮山城(にらやまじょう)を攻めていた時のことです。
北条氏政が率いる大軍が、箱根を越えてすぐ近くの三島まで進出してきました。
「よし、決戦だ!」と息巻く信玄に対し、慎重派の重臣・馬場信春は「敵の様子がまだ分かりませぬ。まずは状況を見極めるべきです」と引き止めます。すると信玄は、自信に満ちた笑みを浮かべてこう言いました。
「案ずるな。すでに、私の『両目の如き者たち』を物見(偵察)に派遣してある」
信玄の両目となるほどの武将とは、一体誰なのか? 宿老たちがざわつくなか、馬を飛ばして泥まみれで本陣へと帰還した二人の若者がいました。
一人は、名偵察として知られる曽根昌世(そねまさよ)。
そしてもう一人が、武藤喜兵衛(真田昌幸)でした。
二人は敵の陣形や心理を完璧に見抜き、信玄に的確な報告を入れました。
「やはりな」と頷く信玄。このとき諸将は、信玄が昌幸たちをどれほど深く信頼し、その情報収集能力と洞察力を高く評価していたかを思い知らされたのです。
父・幸隆、そして兄の信綱・昌輝、そしてこの昌幸。真田家は親子・兄弟の4人全員が「武田二十四将」に数えられるという、武田家の歴史の中でも唯一無二の、最強のDNAを持つ一族としてその名を轟かせていきました。
三方ヶ原の激突、そして師との別れ
元亀3年(1572年)、武田信玄はついに天下を獲るべく、京都を目指して進軍を開始します(西上作戦)。昌幸も「騎馬15騎、足軽30人」を率いて参陣しました。これは数字だけ見ると小さく思えますが、信玄の弟と同格の規模であり、若き昌幸がすでに一国一城の主にも匹敵するだけの領地(知行)を与えられていた証拠です。
12月、武田軍は「三方ヶ原の戦い」で徳川家康の軍勢を木っ端微塵に打ち砕きます。浜松城へ命からがら逃げ帰る家康。
この時、武田軍内では「このまま城へ総攻撃をかけるべし!」という意見が大半を占めましたが、昌幸は「深追いは危険、罠の可能性もある」と反対したとされています。敗軍の将となってもなお不気味な家康の恐ろしさを、昌幸はこの時すでに見抜いていたのかもしれません。のちに二人が、生涯の宿敵として激突することを予感させるようなエピソードです。
この頃には、信玄の直筆サイン(竜朱印状)を発行する「奉行(政治の最高実務者)」の役職にも就いていた昌幸。まさに文武両道、武田家の未来を担う中心人物となっていました。
しかし、運命の時計の針は非情に回ります。
三方ヶ原での大勝利の直後、偉大なる師・武田信玄が病に倒れ、急死してしまうのです。カリスマを失った武田家に、そして昌幸の人生に、歴史上最も凄惨な嵐が吹き荒れようとしていました。
信玄の死という最大の喪失。ここから武田家は勝頼の時代へと移り、あの「長篠の戦い」へと突き進むことになります。昌幸の最愛の兄たちの運命、そして真田家を背負うことになる昌幸の決断……物語は一気にシリアスなクライマックスへと向かいます。
第六章:真田の家督、そして血に染まった「長篠」


元亀4年(1573年)春、武田信玄の死という巨星落つる報に、武田家は激震しました。跡を継いだのは、若き猛将・武田勝頼。昌幸は引き続き勝頼に仕えますが、時代は急速に、そして残酷に回り始めます。
天正2年(1574年)、昌幸の精神的支柱であった父・幸綱(幸隆)がこの世を去りました。この時、真田の家督は頼れる長兄・信綱が継いでおり、三男の昌幸は名門・武藤家の主として、それを支える立場にありました。
しかしその翌年、天正3年(1575年)5月21日。日本史を塗り替えたあの「長篠の戦い」が勃発します。
織田信長・徳川家康連合軍の圧倒的な鉄砲隊の前に、無敵を誇った武田の騎馬軍団は壊滅。その地獄の戦場には、真田の兄たちの姿もありました。長男・信綱と次男・昌輝は、最前線で獅子奮迅の戦いを見せるも、雨あられと降り注ぐ弾丸の前に壮絶な討ち死にを遂げたのです。
昌幸自身も、勝頼の身辺を警護する旗本衆として出陣していましたが、奇跡的に生き延びました。しかし、陣中で二人の兄の訃報を聞いた時の昌幸の絶望は、いかばかりだったでしょうか。
真田家は、一瞬にして次世代のリーダー二人を同時に失ったのです。
「真田昌幸」の誕生——這い上がる血脈
「真田の灯を消してはならぬ」
武田家の重臣・高坂昌信らの強い後押しもあり、勝頼は昌幸に武藤の家を離れ、真田家に戻って家督を継ぐよう命じました。こうして、歴史の表舞台に「真田昌幸」が誕生します。
昌幸は、兄たちの遺領である真田(現在の長野県上田市周辺)に急ぎ戻りました。当時の真田領は、家臣たちが一箇所に集まって住むような一般的な大名国ではなく、泥臭い地元の中小領主たちがそれぞれの土地を必死に守っている、極めて「兵農未分離」の荒々しい土地でした。昌幸はこの荒武者たちを、父譲りのカリスマと人心掌握術で瞬く間にまとめ上げ、独自の強固な領国支配を築いていきます。
因縁の「安房守」——北条への宣戦布告
天正7年(1579年)、勝頼の命を受けた昌幸は、ついにその隠された「牙」を敵に剥きます。ターゲットは、関東の雄・北条氏の領地だった東上野(群馬県)の要衝・沼田領でした。
ここで昌幸の真骨頂である「調略(裏工作)」が炸裂します。 まともに戦えば大軍を擁する北条が有利。ならば、戦う前に勝つ。昌幸は言葉巧みに沼田の国人たちを切り崩し、味方に引き入れていきました。一度は北条の援軍に阻まれるも、翌天正8年(1580年)、昌幸は再び沼田城を猛攻。城の主要な将たちを次々と投降させ、ついに一滴の血も流さずに沼田城を開城させたのです。
この輝かしい大戦功を祝し、勝頼からある特別な「名乗り」が許されました。
「真田安房守(あわのかみ)」
実はこの「安房守」、当時沼田周辺を統括していた宿敵・北条氏邦(ほうじょう うじくに)が名乗っていた受領名(官職名)と同じでした。つまり勝頼と昌幸は、「これからはお前がこの地域のトップだ。北条を叩き潰せ」という強烈なライバル心を込めて、この名を私称させたのです。これぞ、戦国大名としての真田昌幸の覚醒でした。
武田の終焉、そして「喰えない男」の本領発揮
天正10年(1582年)3月、織田・徳川の大軍が武田領へ怒涛のごとく攻め込んできました(甲州征伐)。一族や重臣たちが次々と勝頼を裏切っていくなか、昌幸だけは最後まで忠義を尽くそうとしました。
「館を捨てて、我が真田の岩櫃城(いわびつじょう)へお越しくだされ! 命に代えてもお守りいたします!」
昌幸は勝頼を迎え入れる準備を進めていましたが、勝頼は別の重臣(小山田信茂)の誘いに乗ってしまい、結果としてその裏切りに遭い、武田家は滅亡の運命をたどります。昌幸の進言が受け入れられていれば、歴史は変わっていたかもしれません。
しかし、昌幸の恐ろしいところは、この「忠義の美談」の裏で、冷徹な現実主義者の顔を併せ持っていたことです。実は武田が滅びる直前、昌幸はすでに北条、徳川、上杉といった周囲の強大国と密かにコンタクトを取っていました。生き残るためには、感傷に浸っている暇などない——。
武田が滅びると、昌幸はすぐさま勝者である織田信長に臣従を誓います。
「旧領はそのままお前に安堵(保証)してやる。その代わり、関東管領・滝川一益の与力(部下)となれ」
信長からそう告げられた昌幸は、最愛の次男・信繁(のちの真田幸村)を人質として差し出し、織田政権の歯車として生き残る道を選びました。
偉大な師を失い、主家を失い、寄る辺なき戦国の海に放り出された真田昌幸。しかし、この織田への臣従も、わずか数ヶ月後に起きる「日本史最大の裏切り」によって、再び激しく覆る。
真田昌幸という「怪物」が本当の牙を剥くのは、まさにここからだったのです。
第七章:天正壬午の乱——巨大怪獣たちを操る、神がかった大博打


天正10年(1582年)6月2日、日本史を揺るがす大事件が起きます。 「本能寺の変」。天下人・織田信長が、明智光秀の謀反によってあっけなくこの世を去ったのです。
信長の死によって、彼が手に入れたばかりの旧武田領(甲斐・信濃)は一瞬にしてパニックに陥りました。織田から派遣されていた統治官たちは、怯えて一斉に逃げ出すか、あるいは地元民に襲われて殺害され、信州の地は主(あるじ)のいない「無法地帯」と化してしまいます。
この信じられない大チャンスに、周囲の巨大な「怪物」たちが、一斉に牙を剥いて喰らいついてきました。
- 南から、牙を研いでいた徳川家康。
- 東から、圧倒的な大軍を率いる関東の主・北条氏直。
- 北から、義の軍勢を率いる越後の上杉景勝。
歴史家たちが「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」と呼ぶ、生き残りをかけた凄まじい領土奪言戦の幕が上がったのです。
酒宴の裏に仕掛けられた罠——見事すぎる人心掌握
この時、真田昌幸はまだ小さな一介の国人領主(ローカルな武士)にすぎません。普通なら大国の軍勢に踏みつぶされて終わるところですが、昌幸の頭脳はすでにフル回転していました。
信長が死んで自由の身になったものの、行く先を見失っていた旧武田の家臣たちが、6月12日、神社のお祭りに託けて秘密の会合を開いていました。「これから俺たち、どうするべ……」と酒を酌み交わす彼ら。実は、昌幸はこの場に姿を現していません。しかし、すでに会合のメンバーの一部に裏工作(調略)を仕込んでいたのです。
話し合いが煮詰まった頃、昌幸に買収されていた武将が「これからは真田昌幸殿を総大将に仰ぐべきだ!」と声を上げました。すると、周囲の者たちも「おお、確かにあの男なら!」と次々に賛同。彼らの代表者が岩櫃城の昌幸のもとを訪れると、昌幸は「待っておったぞ」とばかりに不敵に微笑み、彼らをそっくりそのまま自分の家臣団として飲み込んでしまったのです。
さらに昌幸は、矢継ぎ早に地元の有力者たちに土地をプレゼントし、周囲の「人心」をガッチリと掴んでいきます。戦わずして、昌幸は信州に強固な「真田軍団」を爆誕させたのでした。
上杉、北条、徳川……「二枚舌」どころではない、驚異の四股踏み
ここからの昌幸の動きは、まさに「喰えない天才」の本領発揮です。
6月19日、北条氏直の大軍が攻め込んできて、昌幸のボスだった織田の滝川一益を打ち破りました。昌幸は一益を気の毒に思い、諏訪まで安全に送り届けるという優しさを見せますが、一益の姿が見えなくなった瞬間、すぐさま叔父の矢沢頼綱を走らせて沼田城を強奪。さらに息子の信幸(のちの信之)を要衝の城に配置し、ちゃっかり自分の領地を広げます。
そこへ今度は、北から上杉景勝の大軍が迫ってきます。昌幸はすぐさま上杉に頭を下げました。 「今日から上杉様の下僕でございます!」
ところがそのわずか2週間後、今度は東から北条氏直の大軍がやってくると、昌幸は何食わぬ顔で北条に乗り換えます。 「上杉? 何のことですか。これからは北条様のために命を捧げます!」
北条氏直はすっかり昌幸を信用し、上杉とのにらみ合いの最中、昌幸を最重要の「殿(しんがり=退却時の最後尾を守る、最も信頼できる部隊)」に任命して別の戦場へ向かいました。
しかし、これが北条の痛恨のミスでした。 9月25日、沼田城に戻った昌幸は、徳川家康の spy(工作員)として動いていた依田信蕃から「徳川に味方しないか?」と誘われると、「いいよ!」と即答。あっさりと北条を裏切り、徳川家康の家臣になったのです。
激怒した北条軍が昌幸を懲らしめようと沼田城に襲いかかりますが、昌幸はこれを返り討ち。この昌幸の鮮やかな裏切りが決定打となり、大国・北条は徳川と和睦せざるを得なくなりました。
「泥棒に追い銭」は御免だ!——家康との決裂
こうして、徳川家康の勝利に大貢献した昌幸。しかし、ここでとんでもない理不尽が襲いかかります。
和睦の条件として、徳川家康が勝手に北条氏直に対し、「真田が命がけで奪い取った沼田の領土を、北条にあげるよ」と約束してしまったのです。
家康から「そういうわけだから、沼田を北条に明け渡してね。代わりに別の土地をあげるから(いつ、どこをくれるかは決まってないけど)」と言われた昌幸は、はらわたが煮えくり返りました。
「ふざけるな。沼田は俺が自分の知略と血を流して手に入れた土地だ。徳川から貰ったわけではない。それを勝手に他人にやるなど、絶対に認めん!」
怒り心頭の昌幸は、すぐさま徳川と決別。なんと、昨日まで敵だった越後の上杉景勝に再び臣従を願い出たのです。
これは、徳川・北条という最強の二大同盟に対し、真っ向から喧嘩を売ることを意味していました。周囲を敵に回し、再び窮地に立たされた真田家。しかし、昌幸の顔には、恐怖ではなく、むしろ獰猛な笑みが浮かんでいました。
「天下の徳川、北条、どんと来い。真田の戦い方、とことん教えてやるわ」
利害によって敵と味方をコロコロと変え、巨大勢力を手玉に取ったこの立ち回りこそ、のちに豊臣秀吉が昌幸を「表裏比興の者(敵か味方か分からない、喰えない男)」と評し、恐れおののいた理由だったのです。
第八章:上田城築城と室賀暗殺——すべては「罠」の始まり


天正11年(1583年)、徳川家康の傘下にいた真田昌幸は、ある巨大なプロジェクトを始動させていました。のちに不落の伝説となる「上田城」の建設です。
表向きは「上杉景勝の侵攻を防ぐため」として家康の許可をもらい、徳川の資金も使って建てられたこの城ですが、昌幸の頭の中は別の計算で動いていました。「徳川が沼田を北条に渡せと言うなら、俺はここを拠点に徳川と徹底抗戦して独立してやる」。昌幸は、千曲川の沼地や崖といった自然の地形を巧みに利用し、攻めてきた敵を迷路のように閉じ込めて殲滅する、恐るべき「殺戮(さつりく)マシーン」のような要塞を造り上げたのです。
さらに昌幸は、近隣のライバルたちを次々と買収・調略し、着々と真田の独立王国を築いていきました。
小牧・長久手の隙を突く——ライバル「室賀」の謀殺
天正12年(1584年)、徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉が激突する「小牧・長久手の戦い」が勃発。家康が主力部隊を率いて尾張(愛知県)へ向かうと、留守番を任された昌幸は、待ってましたとばかりに動き出します。
家康が目を離した隙に、周辺の領地を騙し討ちのように次々と確保。さらに、徳川の spy(スパイ)として自分を監視していた地元のライバル・室賀正武(むろが まさたけ)を上田城に呼び寄せ、あっさりと暗殺してしまいます。
この時も昌幸の一枚上手だったのは、「室賀が昌幸を暗殺しようとしたので、返り討ちにした」という噂を意図的に流したことです。徳川を過度に刺激しないよう、室賀の妻子は殺さずに上杉へ引き渡すという冷徹かつ完璧な戦後処理を行い、ここに沼田・吾妻・小県の地を完全に「真田の領土」として掌握したのです。
決裂、そして「人質・真田信繁」の覚悟
尾張から戻り、北条氏から「早く沼田を渡せ」と急かされた家康は、天正13年(1585年)4月、昌幸に再び命令します。 「沼田を北条に渡せ。代わりに伊那(長野県南部)の土地をやるから」
しかし、昌幸はフッと鼻で笑いました。「伊那の土地? あそこはまだ徳川が完全に支配してもいない、他人の土地じゃないか。そんな不確かなものと、俺の沼田を交換できるか!」
昌幸は家康の提案を完全拒否。ここに徳川との決裂が決定的になります。 大軍の徳川が攻めてくるのは確実。昌幸はすぐさま、昨日までの敵であった上杉景勝に連絡を取り、最愛の次男・真田信繁(のちの幸村)を人質として差し出し、同盟を結びました。のちに大坂の陣で徳川を震え上がらせる天才武将・信繁は、このとき父の背中を見ながら、徳川と戦う覚悟を決めたのです。
第一次上田合戦——2,000が7,000をハメ殺した「神の戦術」
天正13年(1585年)閏8月、激怒した徳川家康は、鳥居元忠ら名だたる猛将が率いる7,000の大軍を上田城へ派遣しました。対する真田軍は、わずか2,000。圧倒的な兵力差です。
誰もが真田の滅亡を予想しましたが、これこそが昌幸の描いたシナリオ通りでした。
昌幸はまず、城門をわざと開け放ち、徳川軍を城の深くまで誘い込みました。「真田、恐るるに足らず!」と勢いよく突入してきた徳川軍。しかし、彼らが城の中心部まで入った瞬間、バタン!と門が閉められ、逃げ道を塞がれます。
複雑に入り組んだ城下町と城内で、行く手を失い大混乱に陥る徳川軍。そこへ、昌幸が仕掛けていた鉄砲隊が一斉射撃を浴びせ、さらに横からは長男・信幸(信之)の伏兵が突撃。驚いた徳川軍が千曲川の方へ命からがら逃げ出すと、そこには昌幸が事前に決壊させておいた濁流が押し寄せ、多くの兵が溺れ死にました。
一方、東の沼田城でも、昌幸の叔父・矢沢頼綱が北条の大軍を完全にブロック。真田は、徳川・北条という二大巨頭を同時に相手取り、完璧な勝利を収めたのです。
徳川軍の死傷者は1,300人以上。対する真田軍の損害は、わずか数十人。 この衝撃的な大勝利のニュースは日本全国を駆け巡り、遠く離れた関東の結城晴朝のもとに届いた時には「徳川2,000人討死!」と数字が膨れ上がり、「あいつら(徳川)をやっつけてくれて、最高にスカッとした!」と大喜びされたほどでした。
この「第一次上田合戦」をきっかけに、真田昌幸は「武田の元家臣」という格下の扱いから、豊臣秀吉の耳にも届くほどの「信濃の独立大名」として、天下にその名を轟かせることになったのです。家康はあまりの惨敗にショックを受け、真田を警戒するために北条との同盟をさらに強化せざるを得なくなりました。
小さな蜘蛛が、自らの巣(上田城)に巨大な虎(徳川)を誘い込み、毒牙で仕留めた瞬間でした。真田昌幸の「謀略」が、ついに天下のパワーバランスを動かしたのです。
最高のカタルシスですね! わずか2,000の兵で徳川の鼻柱をへし折った昌幸。
この大勝利の後、物語はいよいよ「天下人・豊臣秀吉」との関わり、そしてあの「小田原征伐(名胡桃城事件)」へと進み、歴史は一気に天下統一へと加速していきます。
第九章:豊臣の臣下へ、そして天下を動かした「名胡桃城の悲劇」


第一次上田合戦で徳川を叩きのめした真田昌幸ですが、彼にはもう一つ、恐ろしいほど冷徹な計算がありました。
天正13年(1585年)の冬、昌幸は上杉景勝のもとにいた次男・信繁(幸村)を、今や天下人となりつつあった豊臣秀吉のもとへ送り、大坂で出仕させました。これは「真田は豊臣の味方ですよ」という強力なアピールでした。
これに慌てたのが徳川家康です。家康は昌幸をもう一度懲らしめようと軍を動かしますが、秀吉から「真田はいずれ俺の家臣になる男だ。手出しはならん」とストップをかけられます。秀吉の圧倒的なパワーを前に、あの家康も引き下がるしかありませんでした。
天正15年(1587年)、昌幸は大坂城で秀吉とついに謁見。自らの知恵と度胸だけで、上杉や徳川といった大国に頼ることなく、ダイレクトに天下人とつながる「豊臣大名」への切符を勝ち取ったのです。
歴史の引き金——鈴木重則の命をかけた誇り
しかし、宿敵・北条氏との「沼田領」をめぐる争いはまだくすぶっていました。 事態を重く見た秀吉は、天正17年(1589年)、ある裁定を下します。 「沼田領の3分の2は北条に譲れ。その代わり、昌幸には別の土地をあげる」
第一次上田合戦の引き金となった理不尽な要求と同じ内容でしたが、天下人・秀吉の命令とあっては、昌幸も受け入れざるを得ません。ただし、真田家の先祖の墓がある重要な拠点「名胡桃城(なぐるみじょう)」だけは、真田の領地として手元に残すことが認められました。昌幸は信頼する家臣・鈴木重則(すずき しげのり)を城代(留守居役)に任命し、その城を託します。
ところが同年11月、とんでもない事件が起きます。 秀吉が「大名同士の勝手な戦は禁止(惣無事令)」と厳しく命じていたにもかかわらず、北条の家臣・猪俣邦憲が、卑劣な謀略を使って名胡桃城を奇襲し、強奪してしまったのです。
だまされて城を奪われた城代・鈴木重則は、主君・昌幸に対して合わせる顔がないと、その場で無念の自害を遂げました。我が子のように目をかけていた家臣の死、そして先祖の地を汚された昌幸の怒りは、頂点に達します。
「秀吉様、北条はあなたの命令を完全に無視しました。これでも黙っているのですか!」
昌幸の激しい訴えを受け、秀吉はついに激怒。「北条征伐」の大号令を発します。真田の小さな山城で起きたこの事件こそが、北条氏を滅ぼすことになる「小田原征伐」、すなわち秀吉の天下統一の最終決戦の引き金となったのです。
小田原征伐での快進撃と、石田三成との友情
天正18年(1590年)、小田原征伐が始まると、昌幸は水いを得た魚のように暴れ回ります。 上杉景勝や前田利家らと共に北関東から北条の領地へ攻め込み、敵の要衝・松井田城を包囲。この時、昌幸は秀吉の最側近である石田三成や大谷吉継らと、まるで親しいビジネスパートナーのように頻繁に手紙を交わしていました。
「上野国の敵の領内を、残らず放火してやりました!」
そんな過激な報告を三成に送り、凄まじいスピードで北条の支城を次々と陥落させていく昌幸。その手際の良さに、秀吉からも「戦後の処理(武器や兵糧の没収)はすべて昌幸に任せる」と全幅の信頼を寄せられました。
あの有名な「忍城(おしじょう)の戦い」では、石田三成の指揮下に入り、大谷吉継と共に水攻めに協力。敵の女武者・甲斐姫らの激しい抵抗に遭うなど苦戦も経験しますが、真田の圧倒的な存在感を豊臣政権内で見せつけたのです。
伏見城の突貫工事と、正式な「安房守」へ
北条家が滅亡し、戦後処理が行われました。 沼田の領地は、昌幸の優秀な長男・信幸(信之)に与えられます。これにより信幸は、家康の配下の大名として昌幸の上田領から独立。真田家は「親が豊臣系、子が徳川系」という、どちらが勝っても生き残れるという、恐るべき両建ての構え(のちの真田の生き残り戦略)を早くも形成し始めます。
その後、秀吉が海外出兵(文禄の役)を決めると、昌幸も500人の兵を率いて九州の名護屋城へ出陣。家康と共に前線を見守りながら、大坂へと帰還しました。
帰国後の昌幸を待っていたのは、秀吉の隠居城である「伏見城」の建設工事(普請役)でした。 真田の財政にとって、資材や人手を出すこの工事は大きな負担でしたが、昌幸は黙々と、かつ完璧にこの任務を遂行。築城の最終段階では、秀吉から直接「木曽の最高級の木材を運んでくれ」と名指しで頼まれるほどでした。
この長年の軍功と、過酷な工事への貢献が認められ、豊臣政権から真田家へ素晴らしいご褒美が届きます。 文禄3年(1594年)、長男・信幸と次男・信繁に、豊臣の姓と高い官位が授けられました。さらに昌幸自身も、かつて北条への対抗心から勝手に名乗っていた「安房守」の国から、正式に「従五位下・安房守」という朝廷の官位をガッチリと認められたのです。
のちに、秀吉から「羽柴」の名乗ることを許され、「羽柴昌幸」という書状を残すほど、豊臣政権の重鎮へと登り詰めた昌幸。
しかし、このきらびやかな豊臣の黄金時代も、偉大なる太閤・豊臣秀吉の死によって、にわかに終わりを迎えます。 時代は再び、あの「宿敵」徳川家康の天下へと傾き、真田昌幸の人生最大の、そして最後の知略の大博打へと突き進んでいくのです。
沼田の悲劇から小田原征伐、そして豊臣の重臣への大出世。昌幸が豊臣政権の中でどれほど大きな存在になっていったかが、よく分かりますね。
第十章:犬伏の決断と第二次上田合戦——宿命の親子、天下を分かつ


慶長3年(1598年)夏、天下人・豊臣秀吉がこの世を去りました。 パワーバランスが崩れた日本で、またもやあの「宿敵」徳川家康が牙を剥き、五大老筆頭として一気に天下を奪おうと動き出します。昌幸は表向き家康に従い、大坂への引っ越し準備を進めるなど、従順な部下を演じていました。しかしその胸の内には、秀吉への恩義、そして親友・石田三成や大谷吉継への熱い想いが燻っていたのです。
慶長5年(1600年)7月、家康が反旗を翻した上杉景勝を討つために関東へ下ると、昌幸もその軍勢に従いました。しかし、家康が留守になった瞬間、大坂で石田三成が挙兵。日本中の大名へ「家康を打倒せよ!」という激しいメッセージを送ったのです。
その衝撃の書状が、昌幸のもとに届いたのは下野国・犬伏(現在の栃木県佐野市)の陣中でした。
犬伏の別れ——真田の血を未来へ残すための「偽装決裂」
密室に集まったのは、昌幸、長男・信幸、次男・信繁の親子3人のみ。
「三成に味方し、豊臣のために徳川を討つべきか」「いや、時代は家康のもの。徳川に味方すべきか」
激しい議論の末、昌幸は戦国乱世を生き抜くための、あまりにも冷徹で、あまりにも愛に満ちた「究極の決断」を下します。 昌幸と次男・信繁は、三成(西軍)へ。 長男・信幸は、妻(小松姫)の実父が徳川の猛将・本多忠勝であることから、徳川(東軍)へ。
「これで真田は、東軍が勝っても西軍が勝っても、どちらかの血脈が必ず生き残る」
これが歴史に名高い「犬伏(いぬぶし)の別れ」です。親子が敵と味方に分かれるという悲劇の裏には、何が何でも真田の家を存続させるという、昌幸の執念が隠されていました。
小松姫の鉄壁と、秀忠をハメた「偽りの降伏」
西軍への合流を決めた昌幸は、急ぎ上田城へと引き返します。その途中、長男・信幸の居城である沼田城に立ち寄りました。昌幸は「孫の顔が見たい。中に入れておくれ」と門を叩きますが、留守を守っていた信幸の妻・小松姫は武装して城壁に現れ、「いくら義父上でも、今は敵同士。開門はなりませぬ!」と凛とした態度で拒絶しました。 実は昌幸、あわよくば沼田城を乗っ取ろうという下心があったのですが、これには苦笑い。「さすが本多忠勝の娘よ」と感心し、そのまま上田城へと戻っていきました。
上田城に戻った昌幸を待っていたのは、徳川家康の三男・徳川秀忠が率いる、なんと38,000という圧倒的な大軍でした。対する昌幸の兵力は、またしてもわずか2,000。
秀忠は、真田の長男・信幸を使者として送り、「降伏しろ」と勧告してきます。 ここで昌幸の「悪い癖」——いや、天才的な時間稼ぎが始まります。
「いやぁ、徳川様には逆らいませぬ。今、降伏の準備をしておりますので、少々お待ちを……」
昌幸はしおらしい態度で手紙を送り、秀忠を完全に油断させました。秀忠が「よしよし、真田も戦わずに降伏するか」とニコニコしている間に、昌幸は上田城の罠のチェックを済ませ、土壇場になって「やっぱり降伏するの、やーめた! かかってこい!」と強烈な挑発を叩きつけたのです。騙されたと知った秀忠は激怒し、全軍に上田城総攻撃を命じました。
第二次上田合戦——「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」
戦いが始まると、昌幸のゲリラ戦術が再び炸裂します。 昌幸は巧みに城に引き込んでは伏兵で叩き、夜討ち朝駆けで徳川軍の神経をすり減らしました。さらに、長男・信幸が支城の戸石城へ攻めてくると、昌幸は「息子に手柄を立てさせ、かつ身内での流血を避ける」ため、守っていた信繁に命じて、戦わずにあっさりと城を明け渡すという、神がかった家族思いの采配も見せています。
徳川軍の公式な記録にすら「我が軍大いに敗れ、死傷算なし(数え切れないほどの死傷者が出た)」と大惨敗の様子が書き残されるほど、昌幸は秀忠を徹底的に翻弄しました。
手も足も出ない秀忠のもとに、父・家康から「一刻も早く大坂へ向かえ!」と激しい催促が届きます。秀忠は上田城の攻略を涙ながらに諦め、中山道を急ぎました。
(※近年の研究では、家康からの使者が川の増水で遅れたことが秀忠の遅参の直接の原因とされていますが、昌幸が上田城で秀忠の足を止め、精神的に大パニックに陥れたことが、徳川軍の行軍を著しく狂わせたのは紛れもない事実です)
結果として、秀忠率いる徳川の主力38,000は、天下を分けた「関ヶ原の戦い」の本戦に大遅刻するという、前代未聞の失態を演じることになります。昌幸はわずか2,000の兵で、家康の必勝リレーを完全に引きちぎってみせたのです。
最後の最後まで——敗れてなお衰えぬ闘志
しかし、関ヶ原の本戦では、昌幸の願いも虚しく西軍がわずか1日で大惨敗。石田三成が捕らえられたという絶望的なニュースが上田城に届きます。
普通の大名ならここで心が折れて降伏するところですが、昌幸は違いました。 なんと、西軍の敗北を知った後も、近隣の徳川方の城(葛尾城)へ信繁を出撃させ、夜襲や朝駆けを仕掛けて嫌がらせを続けたのです。「勝負には敗れたが、真田はまだ死んでおらんぞ!」という、家康への強烈な当てつけでした。
しかし、時代の潮流には逆らえません。9月末、昌幸はついに徳川からの降伏・開城要請を受け入れ、不落を誇った上田城の門を開けました。
天下の徳川を二度にわたって文字通り赤子のようにあしらった、戦国史上最強の謀将・真田昌幸。そのあまりの恐ろしさに、勝利したはずの徳川家康は、怒りと恐怖でガタガタと震えていました。昌幸を待っていたのは、助命と、それに続く寂しい流罪の日々——しかし、彼が仕込んだ「真田の牙」は、まだ完全に抜かれたわけではなかったのです。
秀忠を大遅刻させ、徳川を最大の恐怖に陥れた上田合戦。西軍が負けたと知ってもなお夜襲を仕掛ける昌幸と信繁の執念には、ゾクゾクするような格好良さがありますね!
最終章:九度山の落日——謀将の最期と、受け継がれる牙


関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わった瞬間、真田昌幸・信繁父子には、徳川家康から「領地没収」と「死罪(打ち首)」という、最も重い冷酷な判決が下されました。
これを聞いた昌幸は、「ならば上田城に籠もり、最後の最後まで徳川の兵を一人でも多く道連れにして華々しく討ち死にしてくれるわ!」と覚悟を決めます。
しかし、その首に刃がかけられようとした瞬間、必死に家康の前に立ちはだかった男たちがいました。東軍として徳川に貢献した長男・信之(家康の「幸」の字を嫌い信幸から改名)と、その舅である猛将・本多忠勝です。
「私のこれまでの手柄と引き換えに、どうか父と弟の命だけはお助けください!」 「もし真田を処刑するならば、この本多忠勝、徳川に謀反を起こす所存!」
忠勝の命がけの脅しと、信之の涙の訴えに、さあの家康も折れるしかありませんでした。死罪は免ぜられ、高野山への「蟄居(終身刑としての流刑)」へと減刑されたのです。信濃上田の真田領はすべて長男・信之に与えられ、信之は9万5,000石の大名として、父が命がけで守った真田の家を未来へと繋ぐ重責を背負うことになりました。
涙の別れ——「家康を、このようにしてやろうと思ったのに」
慶長5年(1600年)12月13日、昌幸は住み慣れた上田城をあとにしました。彼が去った上田城は、家康の命令によって容赦なく打ち壊され、不落の要塞は跡形もなく破却されてしまいます。
旅立つ直前、昌幸は長男・信之と最後の別れの対面をしました。 周囲を震え上がらせたあの鋭い眼から、はらはらと大粒の涙をこぼしながら、昌幸は悔しさをにじませてこう語ったといいます。
「さてもさても口惜しい(無念だ)。内府(家康)の奴をこそ、この上田城でハメ殺しにして、このように泣かせてやろうと思ったものを……」
最後まで家康への牙を隠そうとしなかった昌幸。しかし、これが愛する長男との、今生の別れとなりました。昌幸には、次男・信繁とその妻子、そして高梨内記ら命を預けた16人の忠臣たちが影のように従いました。
九度山の困窮——手紙に溢れる「親子の絆」
昌幸たちが送られたのは、高野山の麓にある九度山(現・和歌山県九度山町)でした。高野山は「女人禁制」であり、信繁が妻を連れていたことや、冬の厳しい寒さに老いた昌幸の体が耐えられないだろうという配慮から選ばれた地でした。
流人とはいえ、昌幸と信繁にはそれぞれ立派な屋敷(現在の真田庵)が建てられ、家臣たちの家も周囲に用意されるなど、普通の犯罪者とは違う破格の厚遇を受けていました。これは、紀州和歌山藩主・浅野幸長らの温かい sympathy(同情)があったからです。
しかし、いくら形が整っていても、入ってくる収入はありません。 「仕送り」だけが頼りの生活は、すぐに困窮していきました。
昌幸は、国許の長男・信之に対して、「金を送ってくれ」「焼酎や薬を届けてほしい」と、10年の間に20通以上もの手紙を送り続けています。これは単なるおねだりではありません。徳川の目を盗み、手紙のやり取りを通じて「真田の絆」を確かめ合い、信之の体を気遣う、不器用な父親としての愛の証だったのです。
天才の衰え、そして「日本一の兵」へ託された夢
最初の数年は、「いつか家康の許しが出て、信州に帰れるはずだ」と希望を持っていた昌幸。国許の家臣が自分を慕って九度山に逃げてきたときは、嬉しそうに迎え入れることもありました。
しかし、月日は残酷に流れます。 10年という長すぎる歳月は、天下を揺るがした天才の気力を、確実に削ぎ落としていきました。信之に宛てた最晩年の手紙には、かつてのギラギラした謀将の面影はなく、ただ一人の老人の悲痛な叫びが残されています。
「ここもとでの永い山暮らし、よろず不自由なこと、察してくだされ。ここ一、二年は一気に歳をとってしまい、気力もすっかりくたびれてしまった。本当に、大草臥(大層くたびれた)よ……」
天正の乱や上田合戦で、何万もの大軍を相手に一歩も引かなかった男が、手紙の中で何度も「大草臥(おおくたびれ)」という言葉を繰り返したのです。病魔もその体を蝕んでいました。
慶長16年(1611年)6月4日、徳川家康へのリベンジの夢を果たせぬまま、真田昌幸は九度山の地で静かに息を引き取りました。享年65。
戦国最強の隠し玉として、織田、上杉、北条、徳川を翻弄し続けた「表裏比興の者」の、あまりにも寂しい幕切れでした。
家康は昌幸の訃報を聞いた時、「あの怪物が、本当に死んだのか……?」と、自分の耳を疑い、心底ホッとしたといいます。
しかし、家康の安心は長くは続きませんでした。 昌幸は死ぬ間際、枕元に座る次男・信繁の目をじっと見つめ、己の「すべての戦術」と「徳川打倒の執念」を遺言として授けていたのです。
昌幸の死からわずか3年後。 大坂の陣において、父から牙を受け継いだ真田信繁(幸村)が、真っ赤な鎧(真田の赤備え)を身にまとい、上田城の戦術そのままに徳川の数十万の大軍を再びハメ殺し、家康の本陣へ単騎突撃して、家康をあと一歩で切腹の寸前まで追い詰めることになります。
真田昌幸という男は、死してなお、息子という最高の傑作を通じて、宿敵・徳川家康を史上最大の恐怖に陥れたのです。
(了)








