戦国時代、今川義元(1519〜1560)は単なる「海道一の弓取り」としての評価だけでなく、外交・軍事の両面で優れた戦略家でした。彼は隣接する北条氏や武田氏と巧みに同盟・対立を繰り返し、駿河・遠江・三河の三国を支配する大大名へと成長しました。しかし、彼の名が歴史に刻まれる最大の理由は、やはり1560年の**「桶狭間の戦い」**でしょう。

一般に、今川義元は「織田信長に不意を突かれて敗れた愚将」と語られることが多いですが、実際には彼の戦略は極めて緻密で、桶狭間の戦いにも深い意図があった可能性があります。本稿では、今川義元の戦略を北条・武田との外交戦から桶狭間に至るまで分析し、彼がこの戦いで考えていた「真の狙い」について推測してみます。


今川義元の外交戦略――北条・武田との駆け引き

今川氏は、戦国時代の駿河(静岡県)を本拠とする大名でしたが、東には北条氏、北には武田氏、西には織田氏という強国がひしめき合っており、決して安泰ではありませんでした。そのため、義元は優れた外交戦略を駆使し、着実に勢力を拡大していきました。

① 北条氏との関係――敵対から同盟へ

北条氏康率いる北条氏とは当初、敵対関係にありました。特に、関東地方の支配を巡る争いにおいて、義元は甲斐の武田信玄と手を組み、北条氏と戦いました(「河東の乱」)。しかし、永禄3年(1560年)までに、今川・北条・武田の三国同盟が成立し、北条氏との関係は安定しました。

この三国同盟によって、今川氏は東側の脅威を抑えつつ、後背地を安全に保つことに成功しました。このことが、義元の次なる目標「西進政策」を進める土台となったのです。

② 武田氏との関係――信玄との微妙な均衡

同盟を結んでいたとはいえ、武田信玄との関係は微妙でした。特に、義元の嫡男・今川氏真の正室に、信玄の娘が入っていたことから両者は姻戚関係にありましたが、信玄は甲斐の国力の弱さから駿河や遠江への侵攻を常に考えていました。

さらに、信玄は上杉謙信との戦い(川中島の戦い)に忙殺されていたものの、今川氏の西進によって織田氏が衰退すれば、次は今川と武田の対立が避けられなくなると考えていた可能性があります。義元にとっても、信玄を刺激せず、慎重に行動する必要があったのです。


桶狭間の戦い――義元の「真の狙い」とは?

1560年、今川義元は約25,000の大軍を率いて尾張へ侵攻しました。これが桶狭間の戦いです。一般的には「上洛を目指した大軍勢が織田信長の奇襲で壊滅した」と語られますが、果たして義元は本当に京を目指していたのか?

① 上洛説の疑問

従来、義元は京へ上洛し、足利将軍家を支援することで権威を確立しようとしていたと言われています。しかし、当時の情勢を考えると、京の室町幕府はすでに形骸化しており、義元が上洛しても直接的な利益は少なかったはずです。

また、義元が織田信長の尾張を突破したとしても、その先には美濃の斎藤義龍(斎藤道三の子)が控えており、容易に京へ進軍できる状況ではありませんでした。したがって、義元の目的は「上洛」ではなく、むしろ尾張を奪い、織田氏を滅ぼして今川の領土を拡大することだったと考えられます。

② 西進政策の一環

実際、義元は桶狭間の戦い以前から、織田氏の領地である尾張の城を次々と攻略していました。大高城、鳴海城などを手中に収め、じわじわと尾張を圧迫していたのです。これが示すのは、「義元の目的は尾張制圧」であり、「その後の展開を見て西へ進む計画だった」可能性が高いということです。

③ 織田氏を屈服させる狙い

義元は、織田氏を完全に滅ぼすよりも、「信長を降伏させ、臣従させる」ことを狙っていたかもしれません。事実、当時の戦国大名は単なる征服ではなく、現地勢力を取り込む形で支配を広げることが一般的でした。

この点を考えると、義元は桶狭間周辺で示威行動を行い、信長に降伏を促すつもりだった可能性があります。しかし、信長は義元の意図を逆手に取り、奇襲によって戦局を一変させたのです。


まとめ――義元は「愚将」ではなく「慎重な戦略家」だった

今川義元は、単なる野心的な大名ではなく、北条・武田との外交を巧みに操りながら、着実に勢力を拡大してきた戦略家でした。桶狭間の戦いにおいても、無謀な上洛ではなく、尾張を確実に手中に収めるための戦略を進めていたと考えられます。

しかし、信長はその油断を突き、歴史に残る大逆転劇を演じたのです。義元がもし桶狭間で敗れなければ、東海地方の覇権は今川氏のものとなり、その後の戦国史も大きく変わっていたことでしょう。

桶狭間の戦いは、単なる合戦の勝敗を超えた、戦国の戦略と偶然が交錯する歴史の転換点だったのかもしれません。