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第36回「勝負」
NHK大河ドラマ「真田丸」ストーリー紹介 第36話「勝負」 【あらすじ】 昌幸(草刈正雄)と信繁(堺雅人)は、信幸(大泉洋)と別れ、徳川勢を迎え撃つために上田城へ。 途中、昌幸と信繁は沼田城に立ち寄るが、稲(吉田羊)は思いがけない行動に出る。 一方、信幸は家康(内野聖陽)から上田攻めの先ぽうを命じられる。 初陣の秀忠(星野源)は本... -
第35回「犬伏(いぬぶし)」
NHK大河ドラマ「真田丸」ストーリー紹介 第35話「犬伏」 上杉攻めのための徳川軍に従っていた真田家に、大坂で三成(山本耕史)や刑部(片岡愛之助)が打倒家康(内野聖陽)のために挙兵したという報(しら)せがもたらされる。 どちらに味方すべきか、信繁(堺雅人)、信幸(大泉洋)、昌幸(草刈正雄)の三人は下野国・犬伏(いぬぶし)の地で白熱した議論... -
仲良しだった?信幸と三成
豊臣政権において、近習として秀吉の側近くに仕えた信繁に対して、徳川家康の与力大名という立場であった兄・信幸。しかし、意外にも石田三成とは、たいへん親しく接していたらしく、「真田家文書」には14通もの三成から信幸に宛てた書状が残されていると言います。 しかも、これらすべては概して「短い手紙」であったらしく、このことがかえ... -
長束正家(なつかまさいえ・ながつかまさいえ)
【没落した自家を算術の能力で復興させた行政官】 豊臣政権下、五奉行の一人にも数えられた長束正家。父は水口盛里といわれ、元は水口城を居城とする水口を名乗った家系に生まれましたが、水口城が落城したため長束村に居住。正家は長束を名乗るようになります。 後に豪商となるような近江商人を数多く輩出することになる地域で育った正家。... -
真実の上田合戦~秀忠は関ケ原に遅れたか?~
【通説の秀忠、関ケ原遅参】 通説によると、徳川本隊を率いた秀忠は、中山道を進んだ後、家康と合流して石田三成との決戦に参戦する予定だったのが、その途上、上田城の真田昌幸に手こずったたため関ケ原の合戦に遅参。父・家康に叱責を受けたとされています。(※詳しくは投稿記事~第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~) こ... -
「幻の城」伏見城
2016年07月25日 05時20分配信のYOMIURIONLINEより 元の記事はこちらをご覧下さい。 NHK大河ドラマ「真田丸」では豊臣秀吉がいよいよ晩年を迎えた。その後継を巡って豊臣政権が揺らぎ、関ヶ原の戦いを経て徳川政権が誕生した後まで、ドラマの主な舞台となったのが伏見城(京都市伏見区)だ。複数の顔を持つこの城では昨年、大きな発見もあ... -
歯抜け顔の河原綱家
河原綱家の父・隆正の妹は、真田幸隆(昌幸のお父さん)に嫁いで、信綱・昌輝・昌幸・信尹(※信尹は異説あり)らを産みました。 つまり、大河・真田丸で言うところのばば様(恭雲院)にあたります。 真田丸を毎週見ていて、思うこと。 (今日は2016年5月31日です。) オープニングのクレジットで、かなり高い頻度で見かける「河原綱家... -
平野長泰(ながやす)
【七本槍の中では最も出世しなかった人物】 尾張の出身で、若い時から秀吉に仕えた平野長泰。 平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫ともいい、事実であれば家格は良かったという家柄です。 長泰にその名を上げるチャンスが訪れたのは、本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家が決戦をおこなった天正11年(1583年)、賤ヶ岳の... -
第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~
【第二次上田合戦までのいきさつ】 真田昌幸や徳川家康、上杉景勝が豊臣政権に臣従した後、北条氏政は天正18年(1590年)からの小田原征伐により切腹し北条家は没落しました。この後、家康は関東に移封されることになります。 しかし、慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まりました... -
矢沢三十郎頼幸(矢沢頼康)
【真田丸では「三十郎」】 真田幸隆(真田信繁の祖父)の弟・矢沢頼綱の嫡男で、天文22年(1553年)生まれと言われ、真田昌幸の従兄弟(いとこ)にあたります。 真田氏に対しては一門衆の家臣となります。大河・真田丸では迫田孝也さんが演じ、前半はおもに「三十郎」として登場します。 世代としては昌幸よりも、確かに信幸(信之)や幸村(...
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