土方歳三の「研究」はなぜ少ない? 歴史オタクが“歴史学者”になれない理由 歴史が「科学」から「物語」に堕ちるとき

土方歳三の「研究」はなぜ少ない? 歴史オタクが“歴史学者”になれない理由 歴史が「科学」から「物語」に堕ちるとき

琵琶法師や司馬遼太郎を例に出すまでもなく、いつの時代も、“偉人”には壮大な「物語」が付き物だ。しかし、日本を代表する歴史学者・本郷和人氏は、「歴史学者」が人物を掘り下げるとき、最も不要なものこそ、歴史への「ロマン」だという。「歴史学者」と「歴史好き」の間には、長くて深い河がある――両者を隔てる、「物語の歴史」と「科学の歴史」の違いとは? 新刊 『歴史学者という病』 から紹介します。 (※本稿は本郷和人『歴史学者という病』を一部再編集の上、抜粋しています) “国史学科”は東大の落ちこぼれ 東大生は教養学部の1〜2年生から3年次にあがる手前で、進学割り振り制度──略して「進振り」と呼ばれる学部学科の審査を受ける。成績優良な者から順に進学する学科を選択できるシステムであり、文三生のなかでもトップの数人は、希望すれば法学部や経済学部にも越境して進むことが可能である。 ちなみに……我らが国史学科はダントツで人気がない。成績の悪いヤツが最終的に行き着く場所、とまで言われていた(少なくとも私の時代はそうだった)。そうしたリアリティが身に染みていたので、国史学科とはいえ歴史学に対する向学心に燃えた学生のみで構成される場所ではない、ということはうすうす分かっていた。 それでも私の心は揺らがなかった。進振りの審査を経た私は、大学前期の2年間を過ごした教養学部の駒場キャンパスを離れ、本郷キャンパスの国史学科へと学びの場を移した。 教養学部の時代を経て、本格的に国史、日本中世史研究の道を進み始めた私は、それまで慣れ親しんできた「物語の歴史」との訣別をいっそう強く意識するに至った。私が歴史学の道に進むきっかけをつくった最大の「功労者」と別れなければならない──なんとも皮肉なものだが、ここはなんとしても乗り越える必要があった。 偉人たちに通底する歴史のロマンを愛し、偉人伝に心を揺さぶられてきた自分が切り替わらざるを得なかったのは、本物の歴史学とは、そもそも感情に起因する一切のロマンを否定するところからスタートし、科学としての実証史学を成す──という現実に出会ったからである。「歴史学にロマンは要らない」というこの問題は、歴史好きが高じて歴史学を志そうとする若い人がかなりの確率で乗り越えなければならない壁のようなものではないかと思っている。 歴史学に必要なのは科学的な実証のみ! 私がのちに非常勤講師として勤めることになる清泉女子大の狐塚裕子先生から伺った話だが、幕末も守備範囲である狐塚先生のもとには、卒論のテーマとして「坂本龍馬や新選組を扱いたい!」と前のめりにやってくる学生が大半を占めるという。 現実には、坂本龍馬や新選組という存在は、ほぼ小説家・司馬遼太郎の影響下にあるロマンの結晶ともいえ、多数の史料の精読を重ねるという学問の対象にしづらい。要するに史料が少なく、研究対象にならないのである。 とはいえ、龍馬や土方歳三の物語にあこがれて歴史学を学ぼうとする熱心な学生を無下にしたくもない(私も彼らと同じような立場だったから気持ちはよくわかる)。このジレンマに狐塚先生は毎年のように頭を抱え、論文にまとめやすい対象を再検討するよう懇切丁寧に指導しているという。 だからこそ、言わなければならないのだが、歴史学とは、ロマンや感情による歴史事象の解釈ではなく、ひたすらに科学的な実証をもって成すべし──というのが歴史学の第一段階である。ただし、歴史学発展形の第二段階として、実証にばかりこだわっていてはダメなんだよ、というところまでたどりつかなくてはならない。 このバランスがとても大事なのだが非常に難しい。 ゆえに歴史学者には熟成が必要となる。 頭脳明晰の頂点に立つ数学者という職業は二〇代が勝負だという話を聞いたことがある(都市伝説の類いかもしれないが)。三〇代を超えると頭が固くなり斬新な思考ができなくなる、というのがその理由らしいのだが、翻って歴史学者が六〇代や七〇代になっても仕事を続けられる、むしろ齢を重ねるほど大きな仕事を成す方々が多いのも人間社会においてじっくりと経験を積むからなのではないかと推察する(もっとも、偉そうにふんぞり返っていては歳をとる豊穣もないわけだが、それはまた別の次元の話であろう)。 「歴史上の人物の内面に立ち入ってはならない」 「歴史学は人間の内面には立ち入れないし、軽々に立ち入ってはならない」。これは四人組の育ての親とも言える、佐藤進一先生も述べておられた鉄則中の鉄則である。こうした大鉄則にもとづき、大方の歴史学者はトレーニングを積んでいく。 対象が歴史上の人間であれば、その人物像を、歴史資料にあらわれる外面的な行動のみによって丹念に読み込んでいく。その人間がいかなる場合にいかなる「行動」をとるのか、史料で網羅的に押さえこんでいくのである。 「内面にはいっさい触れない」というのはこうした営為の積み重ねでもある。歴史に登場する人物の内面を推量する行為を慎み、起こした行動にのみアクセスする経験を積み重ねつつ、人間そのものに思いを致していれば、おのずと理解が深まっていくと考える。 それにつれて人物を俯瞰で、あるいはメタな視点で観察する──これが歴史学における学者の基本的な姿勢でなければならない。 こうした視点をしっかりと持てるようになるには、時間と経験がたっぷり必要になってくるので、歳を重ねた(優秀な)歴史学者がいっそう成果を上げることになる。 最近の若い歴史研究者の中には、歴史上の人物の心の中や感情を忖度し、さもその人物の胸中を代弁するような発言をする方がいる。あえてオッサンの説教っぽいことを言わせてもらえば、そうした態度は歴史の研究者としてはとても危険である。 歴史上の人物の心の中へ分け入り、「当時この人はこんなことを考えていたのだ」ということを語る─それは作家や文学研究者の仕事である。歴史学を研究する者の立ち入るべき場所ではない。 繰り返し言っておきたい。 現在の歴史学の主流は実証を重んじる「科学」なので、人間の内面にこだわってはいけない。これから歴史学を志そうとする若い人たちにはぜひそのあたりを考えてもらいたい。 科学としての歴史学とは、一級史料を精読して帰納的に考えていく手法である。 こうした物語と歴史学という切り分けや分担については、これからもより一層注意深くありたいと考えているし、私自身その葛藤を何度となく経験してきたので、本書『歴史学者という病』でもこの後しばしば触れることになるだろう。 もっと記事を見る

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