真田信繁(幸村)– category –
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信繁の九度山ライフ③~サナール紐と真田紐!~
真田信繁(幸村)【昌幸・信繁の情報収集にも役立った?真田紐】 九度山に蟄居していた真田昌幸・信繁父子が真田紐を考案し、生計を立てたという有名な俗説。真田の国元である上田付近は織物の産地であり、同じく九度山も織物の産地であったことからこのような逸話が誕生したと考えられています。そして、昌幸・信繁父子はこの真田紐の販売を全国展開。行商人(... -
真田幸昌~信繁の嫡男・大助~
真田信繁(幸村)いわゆる真田三代記など講談等では、昌幸、幸村(信繁)、そして大助(幸昌)とこの3人のストーリーとなることが多い真田一族の物語。 大助(幸昌)は幸村(信繁)の嫡男として、母は春・竹林院(大谷吉継の娘)の間に九度山で誕生しました。諱(いみな)は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されています。(※ややこしい戦国大名の呼... -
信繁の九度山ライフ②~密かに鍛錬を重ねた日日~
真田信繁(幸村)【屋敷の火災~災難までふりかかる信繁一家~】 九度山における十数年におよぶ信繁の配流生活。1611年(慶長16年)に父・昌幸が亡くなったあとも、生活費の工面にさえ汲々とするさまは、この時期の信繁自信の筆による手紙などの一次資料からも伺えます。 家臣に宛てた中からわかる事実として、信繁とその家族が住む屋敷が火事にあっており、... -
信繁の九度山ライフ① ~昌幸の死と大勢の子供たち~
真田信繁(幸村)真田昌幸・信繁の父子が高野山に向かった際、これに随行したいわれる家臣は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、青柳清庵ほか16名。徳川から随行する家臣の人には制限を設けられていたとも伝わっています。 これら随行した家臣には、上田の信之(信幸)から引き続き知行が与えられ、その生活を維持しました。 【家族と... -
真田左衛門佐信繁~官位とその名の由来~
真田信繁(幸村)いよいよ中盤も過ぎ、早いもので第27回を迎えようとしている「真田丸」。主人公・信繁と、その兄・信幸は兄弟そろって従五位下の官位を授り出世。ということになります。 真田信幸・・・伊豆守(いずのかみ) 真田信繁・・・左衛門佐(さえもんのすけ) ※二人が官位を叙任したいきさつや、その官位についての詳しい解説はこちら 今後は劇中、... -
信幸は伊豆守、信繁は左衛門佐。官位、従五位下に叙任!
真田信繁(幸村)天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐が成功し北条家が滅亡。東北の雄・伊達政宗も従えての宇都宮仕置、その後の奥羽仕置を済ませて、秀吉は名実ともに天下統一を果たします。 この時期に秀吉は、徳川秀忠、上杉景勝、小早川隆景、毛利輝元らをはじめとした外様大名と、その有力家臣(例えば、直江兼続など)に豊臣性と、官位を集中して与え... -
豊臣政権下の真田信繁、大名だった?
真田信繁(幸村)【真田昌幸・信幸、名実ともに大名へ】 小田原城を攻略し、北条家を滅亡へと追いやった秀吉。その後に旧北条領の仕置をおこない、徳川家康の関東転封を決めています。 出兵に協力した、佐竹・結城・宇都宮らの諸大名は領国安堵。 そして北条氏との開戦のきっかけとなった真田家においては、沼田・吾妻領を全面委任とされ、信幸は沼田城を回復... -
竹林院(信繁の正室)ときり
真田信繁(幸村)【前半で生き生きと描かれる信繁・側室のふたりの女性】 大河ドラマ「真田丸」、前半の第9回が終了しました。今のところ、信繁はいまだ元服(※当時の成人のこと)を迎えておらず、ストーリーの脇に華を添える女優陣、黒木華さんの「お梅」と長澤まさみさんの「きり」との三角関係で、信繁少年期の大人へと成長していくステップに、戦国武将と... -
信繁の初陣は?
真田信繁(幸村)【信繁の初陣は?第一次上田合戦への参戦は?】 真田信繁(幸村)という人物を考えるときに、みなさんの頭をたびたに悩ませるのが、その歴史的資料が少ないということです。まさにそれが、この初陣はいつだったか?ということでしょう。その足跡をいわゆる信頼のおける歴史的一次資料に頼るとなると、秀吉の北条征伐などまで時間をすすめるこ... -
真田幸村、それとも信繁? 正しいのはどちらなのか②
真田信繁(幸村)以前にも投稿させていただいた記事、真田幸村、それとも信繁? 正しいのはどちらなのか、その第2弾になります。 今回は、私見たっぷりに語りますので、おしかりの言葉・ご意見などはコメント欄にお願いします。 【】 【歴史を語る楽しさ】 歴史は、 実際に見た人。 または経験した人。 それを伝えた人。 そしてそれが伝わっているその時代の... -
真田家の甲冑~信繁(幸村)所用・鉄二枚胴具足~
真田信繁(幸村)真田信繁(幸村)の所用だったと伝わる胴具足。 鉄二枚胴具足です。 南蛮(ヨーロッパ)の甲冑の影響を受けているデザインで、松代藩真田家に代々受け継がれ来たという一品。 ※松代藩真田家は信繁の兄・信幸(信之)を藩祖とする家系になります。 真田家の甲冑は、どれも実用性をあくまで重視したデザインにその特徴があると思われますが、こ... -
真田幸村、それとも信繁? 正しいのはどちらなのか
真田信繁(幸村)【】 現在、真田信繁と表記される機会も多くなっているのですが、本当に「幸村」と呼ぶことは間違いなのでしょうか。その人生について、謎の多い人物ならではの疑問なのかも知れません。 幸村=信繁、その名前の謎について考察してみたいと思います。 まずは、幼名や、諱(いみな)など確認のとれるものが以下、 幼名:弁丸 諱:信繁 ... -
真田幸村~その生涯と戦い~
真田信繁(幸村)真田昌幸の次男。 真田信繁(さなだ のぶしげ)。 「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で現在は広く知られている。 江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込んだ。 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と称される。 後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将...
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