武将列伝– category –
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2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』決定!主人公・小栗上野介忠順とは何者か?
📖 幕末の「改革者」か、それとも「逆賊」か? 小栗上野介忠順、その真実に迫る 2027年のNHK大河ドラマが 『逆賊の幕臣』 に決定し、その主人公が 小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ) であることが発表された。 幕末の激動の時代、多くの幕臣が新政府軍に抵抗し、あるいは新時代を受け入れた中で、「幕府のために最後... -
【歴史空想対談シリーズ】孫子 × 武田信玄 第1回
【】 📖 孫子の兵法 × 甲斐の虎、武田信玄 戦国最強の武将の一人、武田信玄。彼が愛読したとされる**「孫子の兵法」**は、古代中国の軍略書であり、 「戦わずして勝つ」ことを重視する戦術が詰まっている。 もし、武田信玄が憧れの「孫子」と直接対談できたなら? 今回は、ホストの武田信玄が、深い敬意を抱きながら、兵法の真髄を学... -
徳川家康の積極外交と貿易~鎖国を推し進めたのは嘘!?~
📖 徳川家康=「鎖国の祖」…本当にそうなのか? 「徳川家康」と聞けば、多くの人が「鎖国」を連想する。しかし、近年の研究では、家康はむしろ積極的な外交と貿易を推進していたことが明らかになってきた。特に関ヶ原の戦い直後の時期、彼は江戸幕府の基盤を固めるために、海外との交流を活発に行っていたのだ。 今回は、家康の「意外... -
「貨幣の統一」に挑んだ田沼意次——幕府財政改革の先見性
江戸時代の政治家の中でも、田沼意次(たぬま おきつぐ)ほど評価が分かれる人物はいない。「賄賂政治の象徴」として悪評を受けることが多い一方で、彼は江戸幕府の経済構造を改革し、日本の近代化を先取りした政治家でもあった。 その中でも特筆すべきは、**「貨幣の統一」**という先進的な試みである。江戸時代は、地域ごとに異なる貨幣制... -
天下人を支えた影の名将——豊臣秀吉と弟・秀長の知られざる絆
豊臣秀吉といえば、日本史において「戦国の下剋上」を成し遂げた男として広く知られている。織田信長に仕え、農民から天下人へと駆け上がったその人生は、まさにドラマそのものだ。 しかし、その陰にはもう一人、重要な人物がいた。それが**豊臣秀長(とよとみ ひでなが)**である。 秀吉の弟として生まれた彼は、単なる補佐役ではなく、政治... -
蔦屋重三郎と平賀源内――時代を駆け抜けた二人の異端者
江戸の文化を牽引した男、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。知と発想の限界を超えた奇才、平賀源内(ひらが げんない)。 この二人が出会ったとき、江戸の文化は燃え上がった。一方は、町人文化を芸術へと昇華させた出版界の革命児。もう一方は、蘭学・科学・芸術を自在に操る「江戸のダ・ヴィンチ」。 時代に挑み、常識を覆した彼らは... -
江戸時代の出版業界――蔦屋重三郎の登場前と後で何が変わったのか?
江戸時代の出版業界は、武士や公家などの上流階級だけでなく、町人文化の発展とともに庶民にも広がった重要な産業でした。その中で特に大きな変革をもたらしたのが、**蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750〜1797年)**です。 彼の登場によって、出版物の内容、販売戦略、読者層の拡大、浮世絵の流通が大きく変わり、江戸の文化はさらに... -
戦国大名屈指の戦略家・今川義元――北条・武田との駆け引きと桶狭間の「真の狙い」
戦国時代、今川義元(1519〜1560)は単なる「海道一の弓取り」としての評価だけでなく、外交・軍事の両面で優れた戦略家でした。彼は隣接する北条氏や武田氏と巧みに同盟・対立を繰り返し、駿河・遠江・三河の三国を支配する大大名へと成長しました。しかし、彼の名が歴史に刻まれる最大の理由は、やはり1560年の**「桶狭間の戦い」**でしょ... -
豊臣秀吉の朝鮮出兵は「欧州対策」だった?――新たな視点から読み解く晩年の戦略
豊臣秀吉(1537〜1598)が晩年に起こした**「文禄・慶長の役」**(1592〜1598)は、日本史の中でも大きな謎の一つです。日本から遠く離れた朝鮮半島に大軍を派遣し、二度にわたる戦争を引き起こしたこの決断は、一体何を目的としていたのでしょうか? 従来、秀吉の朝鮮出兵は 「大陸侵攻の野望」 として説明されることが一般的でした。しかし... -
伊達政宗の花押に新説――使用時期が逆転?書状内容の矛盾から見直しへ
戦国時代の名将・伊達政宗(1567〜1636)は、数多くの書状を残しており、それに押された花押(かおう)は政宗の生涯を知るうえで重要な史料となっています。従来、政宗の花押は新しいものが登場すると、それ以前のものは使用されなくなると考えられていました。しかし、最近の研究によって、その使用時期に関する新たな説が浮上しました。 花... -
大谷吉治~幸村とともに戦った吉継の息子~
一説には実弟とも伝わる、大谷吉継の子・大谷吉治。官位は大学助を叙任しており、史料によっては大谷大学などと記される場合もあります。(※その他、諱(いみな)に吉胤や吉勝など。) 真田幸村(信繁)は義理の兄にあたります。 慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷家を訪問した際(秀吉死去の前年)には、病状の悪化した父・吉継の代わりに... -
夜討ちの大将・塙団右衛門(ばんだんえもん)
【江戸時代、軍記物や講談で民衆のヒーローに】 本来の名は、塙団右衛門直之。出身地や素性がはっきりとしない、まさに謎だらけの戦国武将。秀吉以来の豊富な軍資金を使って、全国の牢人衆をかき集めた豊臣家。まさにその牢人のイメージにぴったりの人物です。 ※余談ですが、浪人(ろうにん)はもともと、戸籍に登録された地を離れて他国を流... -
織田有楽斎(長益)
【覇王・織田信長の弟、栄華の時】 信長とは年齢が13歳離れた弟にあたる織田有楽斎。信長の存命時には長男・織田信忠の旗下にあり、信長が武田軍と対峙した甲州征伐などに従軍ました。 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、信長の息子たち、信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いたとされ、信長御一門衆のひとりとして栄華を飾ったと... -
小野お通~信之が愛した女性~
第2次上田合戦も終え、いよいよ九度山での蟄居生活に時代を移すことになる昌幸・信繁親子。大河・真田丸もいよいよ大詰めへ、というところでしょうか。 そして、これまでのお話しの展開の中で、スポット的に登場して視聴者を楽しませてくれた登場人物がいます。吉野太夫(初代)、出雲阿国、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)や、他にも清水... -
数正息子・石川康勝のボヤ騒ぎ ~真田丸での大失策・災い転じて福となす~
【石川数正の嫡男・康長と次男・康勝、大坂城に入城】 徳川家康の元を出奔し、豊臣方 に寝返った石川数正。関ケ原の合戦の際には数正は死去していますが、彼の死後も石川家は嫡男・康長が家督を相続、信濃・松本8万石の大名家を存続させます (※康勝も1万5千石を継承)。その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦、康長・康勝の兄弟は徳川... -
島左近・清興(さこん・きよおき)
【「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」】 三成に三顧の礼をもって迎えられ、破格の条件で側近として仕えたという島左近。具体的にはどのような戦国武将だったのか?石田三成に仕えるまでの半生は意外にも史料が残っておらずはっきりとしていません。 まずはその出身地が不明なだけでなく、破格の条件のものとなった左近... -
長束正家(なつかまさいえ・ながつかまさいえ)
【没落した自家を算術の能力で復興させた行政官】 豊臣政権下、五奉行の一人にも数えられた長束正家。父は水口盛里といわれ、元は水口城を居城とする水口を名乗った家系に生まれましたが、水口城が落城したため長束村に居住。正家は長束を名乗るようになります。 後に豪商となるような近江商人を数多く輩出することになる地域で育った正家。... -
木村重成(しげなり)
【秀頼とは乳母兄弟の側近】 父は関白・豊臣秀次の側近だったと伝わる木村重茲(しげこれ)。文禄4年(1595年)の秀次切腹事件の後、重茲やその長男や娘も処刑されますが、その当時、まだ3歳であった重成と、秀頼の乳母を務めていた重成の母は難を逃れることが出来ました。後、重成は秀頼の小姓として召し出され、母・宮内卿局とともに、秀頼... -
真実の上田合戦~秀忠は関ケ原に遅れたか?~
【通説の秀忠、関ケ原遅参】 通説によると、徳川本隊を率いた秀忠は、中山道を進んだ後、家康と合流して石田三成との決戦に参戦する予定だったのが、その途上、上田城の真田昌幸に手こずったたため関ケ原の合戦に遅参。父・家康に叱責を受けたとされています。(※詳しくは投稿記事~第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~) こ... -
キリシタンの大工・吉蔵 ~フランシスコ吉~
真田丸・第29回「異変」に、玉・細川ガラシャとともに登場する、キリシタンの大工・吉蔵。 豊臣秀吉による禁教令を受けて長崎で刑死し、殉教者として聖人に加えられた日本二十六聖人の一人である、フランシスコ吉(フランシスコきち)をモデルにした実在の人物と考えられます。 フランシスコ吉は、パブチスタ以下24名が長崎に向かうの... -
凡庸の2代目、徳川秀忠という男
真田丸第28回。この回は、豊臣秀次切腹事件が新説(斬新な解釈)を用いて展開する中、星野源さん演じる徳川秀忠が初登場。秀次の影に隠れて、ネットではあまり話題に上らなかったようですが、個人的にはたいへん興味深いものでした。家康に言われて、(こちらも初登場の)本多正純に深々と頭を下げる姿は、「実直に、ただひたすら父の言いつ... -
秀吉~天下人のその最期~
【秀吉の付け髭。猿は自ら呼んだ?】 「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と記したのはルイス・フロイス。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣だったので、髭の薄い秀吉は付け髭をすることもあったと言われています。(※中国には昔から秀吉が中国出身者である... -
秀次切腹事件に連座した人々
その数の多さにうんざりしますが、秀次の切腹事件に際して連座して処罰されたり、殉死した家臣たちの一覧です。 この中には秀次の補佐役(後見人)を任されていた前野長康などの秀吉最古参ともいえる重臣(※秀吉伝説の墨俣一夜城築城に協力)も切腹して自害した他、後に大坂の陣で真田信繁や後藤又兵衛らと大活躍する木村重成の父・重茲など... -
本多正純(まさずみ)
永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれた正純。この時、正信は三河一向一揆に参加して徳川家康に反逆しました。その後、一揆が家康によって鎮圧されると、家中を追放されて大和の松永久秀を頼ります。(このエピソードの詳細はこちら) しかし、正純は母親と共に三河に残り、大久保忠世(大久保忠隣の父)の元で保護されました。や... -
菊亭晴季(はるすえ)
【公家の中の公家(清華家の家格)の菊亭家】 菊亭家は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)のうちのひとつ。最上位の摂家に次いで、大臣家の上の序列に位置します。 また、菊亭家(きくていけ)は今出川家(いまでがわけ)ともいい、鎌倉時代末期、太政大臣・西園寺実...