真田主要合戦– category –
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真実の上田合戦~秀忠は関ケ原に遅れたか?~
真田主要合戦【通説の秀忠、関ケ原遅参】 通説によると、徳川本隊を率いた秀忠は、中山道を進んだ後、家康と合流して石田三成との決戦に参戦する予定だったのが、その途上、上田城の真田昌幸に手こずったたため関ケ原の合戦に遅参。父・家康に叱責を受けたとされています。(※詳しくは投稿記事~第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~) こ... -
小田原征伐と真田家~信幸の忍城攻め~
真田主要合戦天正17(1589)年11月10日、秀吉は北条氏の征討戦に向けて、諸大名に知行石高を基準にした軍役動員を示したと言われています。これによると、当時の真田家の兵力動員数は3000人と規定されたことになります。 徳川の与力という位置づけの真田でしたが、「案内者」として上杉景勝、前田利家、依田康国とともに北国衆に編成され、天正18年、3月... -
天正壬午の乱
真田主要合戦本能寺の変で織田信長が横死したことにより、旧武田領は、上杉・北条・徳川の草刈り場と化し、混乱します。 そんな中、真田昌幸は各国のバランスを上手く利用しつつ、謀略の限りをつくして窮地を乗り切り、独立大名としての基盤を築いていくのでした。 【織田信長の急死後の動き、激動の天正10年】 天正10年(1582年)3月11日の武田家... -
第二次上田合戦~関ケ原に遅参させたしたたかな戦い~
真田主要合戦【第二次上田合戦までのいきさつ】 真田昌幸や徳川家康、上杉景勝が豊臣政権に臣従した後、北条氏政は天正18年(1590年)からの小田原征伐により切腹し北条家は没落しました。この後、家康は関東に移封されることになります。 しかし、慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まりました... -
小田原征伐~真田・名胡桃城が発端に~
真田主要合戦【小田原征伐までの流れ】 小田原征伐(おだわらせいばつ)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が惣無事令違反を名目に起こした征討。天皇は後北条氏討伐の勅書を発してはいませんでしたが、当時、太閤の立場にあった秀吉は、天皇の施策遂行者という名分を備えて戦いに臨みます。 1580年(天正8年)、北条氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居... -
第一次上田合戦~上田・神川の合戦~
真田主要合戦【武田家の滅亡から・・・】 天正10年(1582年)3月、織田信長の侵攻により武田氏は滅亡します。 甲斐から信濃、上野に及んだ武田領地は織田家の家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従しました。 しかし、同じ年の6月には京都で本能寺の変がおこり、織田信長が横死。今度は、織田家と友好関係だった北条家が、5万6,000の兵...
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