「畠山重忠が死んで得をしたのは北条義時」という驚くべき事実 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第38話

「畠山重忠が死んで得をしたのは北条義時」という驚くべき事実 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第38話

『頼朝と義時』 (講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、北条時政の失脚が描かれた第38話「時を継ぐ者」について、さまざまな史料や最新の学説を参照しつつ、専門家の視点から見たみどころを解説してもらいました。 『鎌倉殿の13人』の第38話では北条時政の失脚が描かれた。一時は父の時政を殺す決断もしていた北条義時は周囲の説得もあり伊豆への追放に留めたが、2度と時政とは会わないと決意する。歴史学の観点から第38話のポイントを解説する。 北条時政の失脚 元久2年(1205)閏7月19日、北条政子の命を受けた長沼宗政、結城朝光、三浦義村・胤義兄弟、天野政景らが源実朝を北条時政邸から連れ出し、義時邸に入れた。なお慈円が記した歴史書『愚管抄』によれば、三浦義村が中心的な役割を果たしたようである。時政が動員した御家人たちは、形勢不利と見て義時邸に走り、実朝を護衛した。孤立した時政は出家した(牧氏事件)。 翌20日、68歳の北条時政は伊豆国北条に下った。『吾妻鏡』を読むと、時政が自発的・平和的に下向したかのようだが、『明月記』元久二年閏七月二十六日条によると頼家と同じように幽閉されたという。実際には義時は武力を背景に時政を追放、幽閉したのだろう。時政は以後二度と復権することはなかった。 また『吾妻鏡』元久二年閏七月二十日条によれば、北条時政の引退にともない、義時は執権に就任したというが、この時点で執権という幕府の役職が成立していたか疑わしい。父時政に刃を向けた義時を正当化するための曲筆ではないか。 北条義時は大江広元・安達景盛らと協議した上で、京都に使者を派遣し、在京御家人に平賀朝雅討伐を命じた(『吾妻鏡』元久二年閏七月二十日条)。京都に届いた朝雅討伐の下文には実朝の花押が据えられていたという(『明月記』元久二年閏七月二十六日条)。 閏7月26日、在京御家人が後鳥羽院の御所に集結した。この日、朝雅は院御所に来て囲碁をやっていたが、追討の情報を知って自邸に戻った。武士たちが朝雅邸を攻撃したため、朝雅は逃走したが、追撃され討ち取られたという(『吾妻鏡』『明月記』元久二年閏七月二十六日条)。義時は後顧の憂いを絶ち、幕政の混乱を収拾することに成功した。 幕府の内紛の巻き添えで、自身の近臣である平賀朝雅が突然討たれたことに、後鳥羽院は衝撃を受けただろう。幕府に京都の治安維持を全面的に委任することの危険性を痛感したはずだ。 坂井孝一氏が推測するように、後鳥羽が「西面の武士」と呼ばれる直属武力を編成するきっかけは、平賀朝雅誅殺にあったと思われる( 『鎌倉殿と執権北条氏』 NHK出版、2021年)。 義時の時代へ 比企氏の変の時と同様に、牧氏事件でもやはり北条政子が命令を下している。義時には、同僚である御家人たちに命令を下す権限がないからである。 頼朝後家・実朝生母たる政子は緊急事態において将軍権力を代行することができた。義時・政子姉弟が、父である時政に逆らうことができたのは、このためである。また、三浦一族が時政ではなく義時に味方したことも大きかった。 北条時政の権力の源泉は、源実朝の後見役という地位にある。その時政が実朝の地位を否定することは自殺行為である。政子と協調し、実朝を抱え込むことに成功した義時の作戦勝ちと言える。 『吾妻鏡』は、畠山重忠の首を見た北条義時が、重忠との長年の親交を思って涙を流したと記す。同書は狡猾な時政と誠実な義時を対比的に叙述するが、額面通りには受け取れない。義時の父時政に対する反抗を正当化する意図が感じられるからである。 畠山重忠・平賀朝雅の死後、紆余曲折を経て、承元4年(1210)には北条義時の弟である時房が武蔵守に就任した。以後、武蔵国は北条氏の権力基盤になった。重忠を抹殺した時政の謀略の果実を、義時は享受しているのである。現実には義時も重忠を排除する必要を認めていたのではないか。 無実のはずの重忠の遺児たちを北条義時が引き立てた形跡は認められない。北条氏縁戚であった源氏一門の足利義純が畠山の名跡を継ぎ、平姓畠山氏は断絶した。 結果的に義時は、父時政に汚れ仕事を押しつけ、利益だけを受け取った。義時が最初から全てを仕組んでいたとは思わないが、父と友との板挟みに遭って義時は苦悩したという『吾妻鏡』の主張にも疑問が残る。 ともあれ、北条時政追放によって、義時は時政に代わる御家人筆頭として幕政を運営することになった。牧氏事件直後に宇都宮朝綱(時政と牧の方との間に生まれた娘と結婚していた)が謀反を企てているという噂が流れた際も、義時が中心となって事態の収拾にあたっている(『吾妻鏡』元久二年八月七日~十九日条)。 建永2年(1207)6月に天野遠景が幕府に恩賞を申請した時も、まず義時に嘆願書を提出し、義時の許可を得た上で大江広元が実朝に嘆願書を披露している(『吾妻鏡』建永二年六月二日条)。 しかし、北条義時の権力行使は控えめなものだった。坂井孝一氏が指摘するように、義時の文書発給は時政のそれに比べて圧倒的に少ない( 『鎌倉殿と執権北条氏』 NHK出版、2021年)。 北条時政が実朝後見役だった2年弱で発給した文書は、26通現存している。これに対し、牧氏事件後から実朝が将軍家政所下文を発給するようになるまでの四年間に義時が発給した文書は、わずか5通しか現存していない。 加えて、北条義時は時政と異なり、牧氏事件後に政所別当に就任した形跡が確認できない。『吾妻鏡』にも記述がないし、略式の政所下文に義時が署名している事例も見られない。義時は幕府の役職につかず、実朝・政子を陰から支える形をとったと考えられる。 北条義時は、性急に自身への権力集中を進めて反感を買った父時政を反面教師として、慎重に幕政に関与したと考えられる。当時、義時は43歳である。老い先短い時政と違って、慌てて権限を拡大する必要はない。 政治実績を積み上げて、徐々に権力を強化すれば良いと思ったのだろう。己の権力欲のために父親を追ったという非難を避ける意味もあったのかもしれない。 けれども、北条義時がいくら自己抑制に努めたとしても、彼が幕府の実権を握っていることは衆目の一致するところであった。頼朝の時代、頼家の時代、時政の時代を経て、義時の時代が始まろうとしていた。次回以降、義時の政治に注目していきたい。 バックナンバー(最新5回分) 第28・29回: 告げ口、根回し、多数派工作…北条氏の面々による謀略の数々 第30・31回: 史料によって全然違う!? 比企能員の乱の真相に迫る 第32・33回: 頼家死す…!北条政子は「我が子を殺した冷酷な母親」なのか?? 第34・35回: 北条時政が畠山重忠父子の排除を計画した政治的理由とは?? 第36・37回: 暴走が止まらない北条時政——晩節を汚し続けた男の末路

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