『経済の掟は田沼意次から学べ!』は本当に正しいのか?歴史学者の見解

『経済の掟は田沼意次から学べ!』は本当に正しいのか?歴史学者の見解

経済政策、憲法改正、Z世代の困窮etc. 日本人が抱えている大問題の解決策を、歴史から紐解いていく「呉座式・日本史フルネス」。 著書『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が48万部の大ベストセラーとなった歴史学者・呉座勇一氏が、現代と過去を結びつける“未来志向の日本史”を丁寧に解説する。 今の日本の突破口とは? 気鋭の学者が読み解く重厚な歴史の流れから、最善策を見出していく。 ◆過大評価が相次ぐ 田沼意次の経済政策 水野忠邦の天保の改革(1841~)は、株仲間解散という規制改革と、厳しい倹約令の発令という緊縮財政の二本柱であった。現代の経済政策に例えると、小泉構造改革に近い。結局、水野の改革は失敗に終わった。 では、正反対の路線をとっていればうまくいっただろうか。緩やかな物価上昇を是とする「リフレ派」と呼ばれる経済学者・評論家の間では、幕府老中の田沼意次に対する評価が高い。 いくつか例を挙げれば、経済評論家の上念司氏は「意次は『経済の掟』でいうところの『自由な商売』を奨励し、公共事業によって干拓や道路整備などを進めることで初期資本主義のインフラを整備しようとしました」(『経済で読み解く明治維新』KKベストセラーズより抜粋)と、その「重商主義」を称賛している。小説家の百田尚樹氏に至っては、「もし意次が失脚せず、彼の経済政策をさらに積極的に推し進めていれば、当時の経済は飛躍的に発展していた可能性が高い。そうなると日本は世界に先駆けて資本主義時代に入っていたかもしれない」(『日本国紀』幻冬舎より抜粋)とまで述べている。 賄賂政治家と非難された田沼意次の再評価は大石慎三郎氏(『田沼意次の時代』岩波書店)をはじめ、歴史学界で既に行われてきた。けれども近年のリフレ派による田沼評価は、礼賛の域にまで達しており、違和感がある。そもそも、しばしば目にする、三大改革=緊縮財政、田沼政治=積極財政という分類が乱暴すぎる。 ◆田沼政治はリフレの代表例という誤解 享保の改革(1736~)で改善した幕府財政は、田沼時代(1767~)に相次いだ天災・飢饉によって再び悪化し始める。田沼は財政再建のため倹約令を頻発した。この点では享保の改革の緊縮路線を引き継いでいると言える。 しかも田沼は拝借金を停止してしまった。拝借金とは災害などで経済難に陥った大名が無利子で幕府から資金を借りられるという制度である。現代で言えば地方交付税交付金のようなものである。 したがって拝借金の停止は、悪い言い方をすれば地方切り捨てである。小泉構造改革では、国の財政再建のために、地方交付税交付金を大幅削減している。その意味で田沼の財政再建策は、リフレ派が批判する“小泉”的でさえある。 田沼が「自由な商売」を奨励した、という理解も怪しい。田沼は運上・冥加金(献金)目当てに、多種多様な業種に対して株仲間を公認した。これは一種のカルテルなので、「自由な商売」には逆行する。ちなみに株仲間制度は、第8代将軍徳川吉宗が全国的な流通を担う江戸十組問屋・大坂二十四組問屋の株仲間を公認したことに始まるので、この点でも田沼政治は享保の改革を継承している。 田沼は印旛沼干拓という大規模公共事業に着手したが、大洪水によって工事は中止になった。また田沼は蝦夷地の金銀鉱山を開発し、その金銀でロシアと貿易を行うという壮大なプロジェクトを構想したが、これも調査段階で断念している。田沼の“成長戦略”はどれも不発に終わったのである。 では田沼は、収支の均衡を無視して積極的に財政出動すればよかったのだろうか。経済成長の見込みがないまま財政赤字を拡大すれば、結局は貨幣改鋳で穴埋めせざるを得ない。貨幣の質を落とせば物価は高騰し、幕府財政は悪化するという悪循環である。成長戦略が頓挫した時点で、田沼の失脚は不可避であったと思う。 ◆今週のフルネス 成長戦略なき積極財政策では、経済回復は成し遂げられない 【呉座勇一】 ’80年、東京都生まれ。日本中世史を専門とする歴史学者。’16年に発刊した『応仁の乱‐戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)は、48万部を超えるベストセラーとなり、歴史学ブームの火つけ役に もっと記事を見る

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