【歴史の小窓(8)】信長は「本能寺の変」前日に日食を見たか

【歴史の小窓(8)】信長は「本能寺の変」前日に日食を見たか

JR岐阜駅前の織田信長の銅像=岐阜市 JR岐阜駅前の織田信長の銅像=岐阜市 木村拓哉さんが織田信長を演じた映画「レジェンド&バタフライ」に刺激を受けて、「本能寺の変」を調べてみようと思いついた。とはいえ、詳しくはない。知っていることと言えば、信長に引き立てられて出世してきた明智光秀の謀反の理由については、謎が多いということ。有力な説には、信長に家来たちの前で足蹴にされたからなどという怨恨説や、四国平定を巡る信長と光秀の意見の対立、急成長してきた羽柴(豊臣)秀吉と光秀との確執や、実は光秀を操る者たちがいて、その黒幕には朝廷や室町幕府の足利将軍家、さらにはイエズス会とする説があるが、ここでは触れない。 ▽御所をむしろでつつむ 面白い切り口はないかと本をひっくり返していたら、興味深い記述にぶつかった。天文学者の斉藤国治さんの「宇宙からのメッセージ」(雄山閣、1995年)に、本能寺の変の前日に日食があったというのだ。沖縄周辺は皆既日食で、京都でも大きく欠けた部分食が見えたはずだという。 本能寺の変は天正10年6月2日未明だから、日食が起きたのは同1日で、西暦に直すと1582年6月20日(ユリウス暦)。国立天文台のデータベースで調べると、京都での最大の食分(欠けた割合)は6割にもなる。午後2時過ぎに欠けはじめ、同3時半頃が最大で、同4時半に終わる。2時間ちょっとの天体ショーだ。 この日食を信長は見たのだろうかと思って調べると、なんと本能寺で茶会を開いていた。東大教授(中国思想史)の小島毅さんは「織田信長 最後の茶会」(光文社新書、2009年)に、出席した前太政大臣や関白、内大臣など公家約40人の名前を列挙して「さながら内裏の公卿会議がそのまま本能寺のもとに移ってきた観がある」と書いている。 しかし、ここで疑問が浮かぶ。日食の日に茶会をするのか? 日食は公家らにとっては「凶事」ではなかったのか。東大名誉教授(日本中世史)黒田日出男さんの「王の身体 王の肖像」(平凡社、1993年)によると、日食、月食の日には天皇のすまいである御所を、むしろ(蓆)でつつむのだという。13世紀初めに書かれた朝廷や公家たちの行事や儀式をまとめた本によると、日食や月食の太陽や月の光は避けるべきもので、浴びてはいけないとされていたからで、公家たちも日食の時は日の出前、月食の時は日暮れ前から御所にこもる一方、僧侶たちはおはらいの読経を行ったという。 11世紀前半には記録が見えはじめ、やがて儀式化して、鎌倉、室町、戦国、江戸時代と続いた。日食、月食がいつ起きるかを事前に知ることは極めて重要なので、当時の暦には日食予報が書いてあった。 信長時代には、朝廷が暦をつくっていて、これを京暦(宣明暦)とよんでいたが、地方によっては独自の暦が流通していた。信長の本拠地にも暦(ここでは便宜的に「濃尾暦」と呼ぼう)があり、どっちの暦にも6月1日の日食は予報されていた。公家たちは、そんな日に、御所(天皇)や自分の屋敷を離れて茶会に出ることに、不安や後ろめたさはなかったのだろうか。それ以上に、あえて茶会を開く信長の意図はなんだったのだろうかという疑問が浮かぶ。 ▽京暦の改暦を要求 ここで本能寺の変までの信長らの動きをおさらいしておこう。 天正10年3月、徳川家康と同盟して武田氏を滅ぼした信長は、5月15日から3日間、安土城に家康を招いて祝宴を繰り広げた。宴の責任者は明智光秀。ちょうどそのころ、備中高松城(岡山県)を包囲していた豊臣秀吉から信長に、「援軍要請」の文書が届く。高松城の清水氏を助けようと西から毛利氏の大軍がやってきたという内容だった。 信長は自身も出陣することにしたが、その前に光秀や高山右近らに先発するように命じた。光秀はすぐに居城の坂本城(大津市)に帰り、さらに26日にはより備中に近い居城の亀山城(京都府)に移る。こんな織田方の騒動を横目に家康は、信長のすすめもあって21日に安土をたって京都見物に向かい、27日には京都から堺に移動した。 信長は備中出陣前に上洛することにして29日、安土をたった。天気は雨で、途中、山科や粟田口で公家たちが出迎えようとしていたが、「本日は出迎え無用」という信長の言葉が伝わるとそれぞれ帰って行った。信長が本能寺に入ったのは夕方だった。 翌6月1日(旧暦小月のため、この年の5月は29日まで)が、本能寺で開かれた茶会の日で、信長が集めた天下に並ぶもののない名物茶道具も約40点、安土からわざわざ運び込み、茶会を盛り上げた。 本格的な茶会ではなく、懇談して茶菓を出しただけとする説もあるが、この懇談の中で一騒動があった。信長が京暦の改暦を要求したのだ。改暦の要求はこの年の1月以来2回目で、どういうことかというと、先に触れたように国内に知られていた暦には朝廷がつくる京暦のほかに地方版ともいえる暦がいくつかあった。地方の暦は京暦を基にしているので違いはほとんどないのだが、この年は京暦と濃尾暦との間に大問題が起きていた。 旧暦特有の「閏月(うるうづき)」に関するもので、月の満ち欠けを1カ月とする旧暦では、1年を12カ月(大の月は30日、小の月は29日)としても354日にしかならないから、実際の1年約365日との差は11日ほどになる。そのため、2年で22日、3年で33日少なくなるため、数年に一度、1カ月を余分に入れて1年を13カ月として調整した(ちなみに今年は3月22日が「旧暦閏2月1日」)。この余分な1カ月を閏月といい、天正10年末から同11年初めにかけてが、閏月が発生する時期だった。 そこで京暦では天正11年正月の後に「閏正月」を置いたが、濃尾暦は天正10年の12月の後に「閏12月」を置いたので、二つの暦で2か月間、月の名前、日付が一致しない。 これでは政治も経済も、軍事面でも混乱すると信長は考えたのだろう。何しろ、「天正11年1月1日に安土城に集まれ」と武将たちに命じても、京暦と濃尾暦では30日近いずれがあるからまともな戦はできない。そこで信長は天正10年の初めに安土城で、公家らに朝廷の暦を濃尾暦に合わせるよう求めた。しかし、このときは武田氏との対決を目前に控えていたので引き下がったが、本能寺で蒸し返したのだ。 居合わせた公家は日記に「とても無理なことだ」と書いたのも当然の乱暴な注文だった。もしそうなったら、半年後に控えた年末年始の各儀式などを1カ月ずらさなければならないし、国内が混乱するのは目に見えている。その日にどこまで話が進んだのか判然としないのは残念なところだ。 一方、光秀は、1日夕方から行動を起こし、亀山城を出て本能寺に向かった-。 ▽光秀は確信を持って京へ こうしてみると信長があえて日食の日に茶会を設定した意図を想像してみたくなる。日食は「凶事」の前触れと忌む公家たちに、自分は因習にはとらわれない新しい、言葉を換えれば自然を恐れない人間であることを印象づけ、さらに暦も自分が使っている濃尾暦にすることで時を支配する者としてのイメージを確固としたものにしたかったのだろう。朝廷にかわって暦を支配するという劇的な場面を演出するのに「日食」は効果的だから、京に入るときに出迎えの公家たちに、あいさつなら翌日、本能寺に来るようにと伝えたのではないか。 こうした考えを信長は以前から持っていて、自信家だから近臣たちにも公言し、もちろん光秀も聞いていただろう。信長が本当に本能寺にいるかどうか、光秀に不安はなかったに違いない。日食はそうそう起こるのもではないのだから、信長は本能寺にいると確信して京に向かった、というのが私の想像だ。 ところで、茶会当日の日食を信長らは目撃したのだろうか。ちなみに、京都の公家は日記に、この日の天候は「雨のち曇り、その後晴れた」とあり、奈良の僧侶は「夜は大雨、午前9時すぎてやんだ」、他の1人は「今朝は大雨、午前8時すぎにやんで、天気快然」と書いている。(共同通信記者・黒沢恒雄) くろさわ・つねお 1953年生まれ。織田信長や本能寺の変について調べてみようと思いついたのはいいのだが、それに関する著作物のあまりの多さに気が遠くなった。信長は源義経や坂本龍馬などと並ぶ歴史上の人気者ということを実感した。研究者だけでなく歴史愛好家が独自の視点で持論を展開しているその幅の広さから、全体を探るのをあきらめて、脇道の日食に絞って資料を読み始めたらこんな結論になってしまった。 2023/3/8

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