中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。 ※本稿は、倉山満『 嘘だらけの日本古代史 』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。 写真=iStock.com/Taku_S ※写真はイメージです 全ての画像を見る(5枚) 「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか 仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。 仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。 こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。 高校の日本史教科書は、「地球に原始人が出てきて、外国には文明があり、日本は縄文時代の後に弥生時代があって、ムラからクニに大きくなる過程で、王様が中華皇帝に使いを出して……」と始めます。 確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。 こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。 「魏志倭人伝」は単なる参考資料 その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。 しかし、それしか残っていないなら、使うしかない。 実は『 日本書紀 』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。 『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。 三十九年、この年太歳己未つちのとひつじ。――魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。 四十年、――魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして勅書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。 四十三年、――魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者棭耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。(前掲『 日本書紀(上)全現代語訳 』二〇一~二〇二頁) 正史・日本書紀には卑弥呼も、邪馬台国も書かれていない これが、『 日本書紀 』で触れられている「魏志倭人伝」のすべてです。 神功皇后の統治の年数をあちらの年代に合わせて計算して「三十九」「四十」「四十三」としていますが、「○○天皇は百歳まで生きた」なんてのを史実と認めない限り、どう計算しても神功皇后と卑弥呼は年代が合いません。 写真=iStock.com/nattya3714 ※写真はイメージです 身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。 これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。 ちなみに、明の国書の宛所は「良懐」です。西暦一三六九年にもなってこんなことをやっているのが中華皇帝、自分たちの歴史はともかく、外国の歴史を真面目に記述する気があるとは思えません。 明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ… 魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。 明智光秀と同一人物だと思われるのですが、「阿奇知あけち」という謎の人物が別途に登場するのが、『 明史 』(一七三九年成立)の日本編です。次のように書かれています。 信長の参謀に阿奇知という者がいたが、あるとき信長の機嫌を損ねるようなことをした。信長は秀吉に命じ、兵を率いて彼を討伐させた。ところが、信長は家臣の明智の不意討ちにあって殺された。秀吉はその時、阿奇知を攻め滅ぼしたところだったが、変事が起こったことを聞くと、武将小西行長らとともに、勝ち戦に乗じて軍を引き返して明智を誅殺した。秀吉の威名はますます天下に轟いた。(『 倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 』藤堂明保・竹田晃・影山輝國、講談社、二〇一〇年、四三一~四三二頁) 豊臣秀吉、朝鮮出兵で明と戦っています。その秀吉に関して、この杜撰な記述。もはやインテリジェンス以前の問題です。明史の成立は江戸時代ですが、同時代の日本人の歴史家でこんな不正確な記述は許されません。 人や地域の名称は音にあてこまれているだけ […]
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