大河『家康』徳川家康誕生の秘密 意外な苦労!?「徳川」の苗字を得たいきさつ 歴史学者が解説

大河『家康』徳川家康誕生の秘密 意外な苦労!?「徳川」の苗字を得たいきさつ 歴史学者が解説

NHK大河ドラマ「どうする家康」第11回「信玄との密約」では、松平家康(松本潤)は三河国主となり、姓を「徳川」と改めていました。では、家康はどのようにして「徳川家康」となったのでしょうか? 永禄9年(1566)、松平家康は、ついに三河一国を平定します。この年、家康は従五位下・三河守に任命されます。三河守の叙任は同年であるが、正親町天皇の勅許(天皇の許可)は翌年のことになります。そして、永禄9年には、もう1つ、家康にとって、大きなことがありました。それは「松平」から「徳川」に苗字を改めたのです。家康がついに「徳川家康」となるわけですが、その実現までには結構な苦労がありました。 家康と朝廷が直接、やり取りしたわけではなく、仲介者がいました。それは、京都・誓願寺の泰翁慶岳です。泰翁は三河国岡崎の出身であるとされ、朝廷・室町幕府とも繋がりがありました。かねてより、松平氏と京都を繋ぐ役割を泰翁は果たしていたのです。が、今回は泰翁が三河に下向していたため、実際の交渉は、その弟子・慶源が都にて担当していました。泰翁が家康の「徳川改姓」実現のために、目を付けたのが、公卿・近衛前久です。前久は、内大臣・右大臣を歴任し、関白となっていたのです。 泰翁は、弟子の慶源を近衛前久のもとに遣わし、「徳川改姓」の件を頼み込んだのでした。永禄9年に前久が誓願寺(泰翁)に宛てた書状がありますが、そこには、松平家は昔「家来」であったので、徳川改姓に向けて尽力しようとの内容が記されています。ちなみに、徳川という苗字は、清和源氏の流れを汲む新田氏の分家・得川氏に由来します。家康は自分の先祖が源氏であると思い、自らもその血を受け継いでいるということで「源家康」と書状に記してきました。源というのは「氏」で あり「氏」というのは、同一の先祖から発した血族を示す呼称のこと。「平」「藤原」「橘」なども「氏」です。 一方、「松平」や「徳川」「織田」というのは、家名を示す「苗字」です(苗字は所領の地名に由来することが多い)。さて「徳川改姓」に向けて、動いていた近衛前久ですが、「先例がない」という正親町天皇のお考えもあってとんとん拍子に話が前に進んだわけではありません(松平の苗字では三河守任官の事例もない)。 そうしたところに、吉田兼右(公卿・神道家)が、万里小路家に伝わる古い記録から「先例」を探し出してきて、前久に提出したのです。内容は、徳川と藤原氏との関係を示すものでありました。それを系図にして、提出。天皇の「徳川改姓」の許しがやっと得られることになったのでした。 徳川という「苗字」になったのは良かったとは言え、「氏」は「源氏」ではなく「藤原」となったことは、家康にとっては少し残念ではあったでしょう。万里小路家の旧記の内容もどこまでが本当か怪しいものですが、とにかく 、家康は三河守に任命され、徳川という苗字を認められたのです。 さて、永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄(阿部寛)は、駿河の今川氏真との同盟関係を破り、駿河国に侵攻します。武田氏と今川氏は、相模国の後北条氏と共に、いわゆる「三国同盟」を結んでいたのですが、永禄3年(1560)に今川義元が織田信長に桶狭間で討たれて以降は、特に距離が出来ていたのです。今川氏の本拠地・駿府を瞬く間に落とした武田軍。窮地の今川氏真には如何なる運命が待っているのでしょうか。 (歴史学者・濱田 浩一郎)

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