歴史の教科書を読んでもわからない…源氏物語に登場する「闇の女帝」が進めたひどく悪辣な計略の中身

歴史の教科書を読んでもわからない…源氏物語に登場する「闇の女帝」が進めたひどく悪辣な計略の中身

平安時代とはどんな時代だったのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「藤原氏は娘を天皇の妃にして、その子を天皇に立てることで皇室との関係を深めた。政治の実権を握るために、天皇をだまして譲位させることもあった」という――。 ※本稿は、繁田信一『源氏物語のリアル』(PHP新書)の一部を再編集したものです。 ■朝廷を裏から牛耳る闇の女帝 『源氏物語』の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)については、現代の読者の大半が、恐ろしい女性という印象を持っているのではないだろうか。いや、それどころか、彼女を悪い女性と見ている読者も、けっして少なくはないことだろう。 そして、これは、今にはじまったことではない。「古注釈」とも「古注」とも呼ばれる、明治時代以前に成立した数多の『源氏物語』の注釈書においても、弘徽殿女御は、「性なし」と断じられ、「悪后(わるきさき)」と評されてきたのである。古語に言う「性なし」とは、現代語に訳すならば、「性格が悪い」といったところであり、また、「悪后」の意味するところは、字面の通り、「悪い妃」であろう。 確かに、朱雀帝(すざくてい)の母親(母后)として皇太后となり、「弘徽殿大后」と呼ばれるようになって以降の彼女などは、さながら、朝廷を裏から牛耳る闇の女帝のようであった。弘徽殿大后は、間違いなく、恐ろしい女性であり、ある意味において、悪い女性である。 例えば、彼女は、賢木巻の終わり、朱雀帝の寵愛する朧月夜(おぼろづきよ)と光源氏との密通が露見したときにも、「このついでに、さるべきことども構へ出でむに、よき便りなり」と、まず何より、この密通の件を口実(「よき便り」)に、かねてより嫌っていた光源氏に制裁を加える(「さるべきことども構へ出でむ」)ことを考える。 彼女には、愛する女性に裏切られた気の毒な息子を慰めることよりも、積年の恨みを晴らすことの方が、ずっと重要だったのである。 ■『源氏物語』では性なし、悪后と叩かれる かつて桐壺更衣(きりつぼのこうい)を心底から憎んでいた弘徽殿大后は、桐壺更衣の死後には、桐壺更衣の忘れ形見である光源氏こそを、桐壺更衣の代わりに憎み続けていたのであった。 もちろん、弘徽殿大后の抱く憎悪は、光源氏にも十分に伝わっていた。朧月夜との密通が露見した後の須磨巻において、彼が自ら都を離れて須磨へと下るのは、他の誰でもない、弘徽殿大后を恐れたからであった。その頃、世間には、「遠く放ち遣すべき定めなども侍るなる」と、いずれ光源氏は罪人として公式に遠方への流罪に処されるだろうとの風聞が流れていたが、光源氏断罪の動きの中心にいるのが弘徽殿大后であることは、光源氏にもよくわかっていたのである。 こんな弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、やはり、恐ろしい女性であろう。が、彼女は、本当に悪い女性だろうか。古くは中世から「性なし」と断じられて「悪后」と評されてきた弘徽殿大后であるが、例えば、彼女が朧月夜との密通の件で光源氏を罰したとして、これは、悪行ではあるまい。 むしろ、王朝時代の倫理観からすれば、天皇の寵愛する女性に手を出すことこそが悪行であり、したがって、光源氏こそが悪人である。そして、悪人である光源氏が罪人として処罰されるのだとすれば、それは、正義の実現なのではないだろうか。 そう考えると、弘徽殿大后(弘徽殿女御)は、恐ろしい女性ではあっても、悪い女性ではない。それでも、彼女が「性なし」「悪后」と叩かれ続けてきたのは、要するに、彼女が光源氏の敵だったからであろう。物語の世界では、たとえ主人公こそが真の悪であるとしても、その主人公と敵対する登場人物は、皆、悪として位置付けられてしまうものなのである。 ■モデルとなった藤原詮子 しかし、『源氏物語』の弘徽殿大后(弘徽殿女御)のモデルの一人に比定される東三条院藤原詮子は、間違いなく、現実の王朝時代を生きた本物の「性なし」の「悪后」であった。 彼女に冠せられる「東三条院」という号は、太上天皇(だいじょうてんのう)(上皇)に准ずる身の准太上天皇としての号であり、「院号」と呼ばれるものである。上皇が「院」と呼ばれることも、それぞれの上皇が「陽成院」「宇多院」といった院号を持つことも、王朝時代以前から通例となっていたから、一条天皇の母親として准太上天皇となった詮子も、「院」と呼ばれたのであり、かつ、院号を奉られたのであった。 ただし、一条天皇の母親であって、当然のことながら女性であった彼女は、殊更に「女院」と呼ばれ、また、彼女の院号は、特に「女院号」と呼ばれる。また、詮子の女院号が「東三条院」であるのは、彼女の父親の本宅であったことから彼女の里第ともなった邸宅が、世に「東三条殿」と呼ばれていたからに他ならない。 そして、そんな尊貴な身の東三条院詮子であるが、彼女は、恐ろしい女性であったうえに、とんでもなく「性なし」の、とんでもない「悪后」であった。 ■わが子を天皇にするため、花山天皇を出家に追い込む なぜなら、彼女は、自身が一刻も早く天皇の母親(母后)になるために、一人の天皇を詐術によって玉座から追い出すという、ひどく悪辣(あくらつ)な陰謀に荷担していたからである。いや、もしかすると、その謀略において、彼女は、単なる共謀者などではなく、首謀者でさえあったかもしれない。 そもそも、詮子は、右大臣兼家の娘であり、円融天皇の女御であった。そして、彼女は、円融天皇の唯一の皇子である懐仁親王を産む。すると、この皇子は、円融天皇が退位して、花山天皇が即位するや、わずか五歳にして皇太子に立てられることになる。この時点で、詮子は、『源氏物語』の序盤の弘徽殿女御と同様、皇太子(東宮)の母親という立場にあった。 しかし、花山天皇は、在位三年目で唐突に退位する。それは、最愛の妃を喪った悲しみに耐えきれず、出家の道を選んでの退位であったが、『大鏡』によれば、この電撃的な出家劇・退位劇の裏には、詮子の父親にして皇太子懐仁親王の外祖父(母方の祖父)である右大臣兼家の謀略があったらしい。 すなわち、幼い新天皇の外祖父として、天皇の大権を代行する摂政の座に着くことを目論む兼家が、一日でも早く外孫の懐仁親王を即位させようと、自らも動き、かつ、その息子をも使って、花山天皇に出家を唆したというのである。 ■父・兼家さえも陰謀の手駒にする 事実、花山天皇が突然の出家によって玉座を下り、懐仁親王がほんの七歳にして一条天皇として即位すると、その外祖父の兼家は、待ち構えていたかの如く、当然のように摂政に就任する。そして、新摂政兼家は、横暴の限りを尽くしつつ、栄華の限りを求め続けていく。兼家が花山天皇の出家・退位で得たものの大きさは、まさに計り知れない。 だが、実のところ、そんな兼家さえもが、この陰謀においては、単なる手駒の一つに過ぎなかった。剛腕の政治家にして辣腕(らつわん)の謀略家として知られる兼家も、実際には、その娘の詮子の掌中において、いいように転がされているだけだったのである。 考えてもみてほしい。右の陰謀で最も得をしたのは、結局のところ、天皇の母親(母后)となって、さらには准太上天皇ともなった、藤原詮子その人なのではないだろうか。 ■天皇を宮中から連れ出した計略 花山天皇が唐突に出家を遂げたのは、寛和二年(九八六)六月二十三日の夜のことである。その夜、花山天皇は、こっそりと宮中を抜け出すと、平安京東郊の東山に位置する元慶寺(花山寺)へと向かい、そこで、髪を下ろして僧侶となったのであった。 しかし、天皇が秘密裏に内裏および大内裏を出るには、やはり、手引きをする者が必要となる。そして、史書の『扶桑略記』によると、手引き役を務めて花山天皇を宮中から密かに連れ出したのは、蔵人として天皇の側に仕えていた藤原道兼と厳久という僧侶とであった。彼らは、巧みに最も目立たない経路を選んで、みごとに花山天皇を内裏からも大内裏からも脱出させたのである。 ここに登場する蔵人道兼は、兼家の息子に他ならない。彼は、「私も一緒に出家します」という虚言によって天皇に出家の決意を固めさせておいて、いざ元慶寺に到着すると、「出家する前に、父に最後の挨拶をして参ります」などと言って、さっさと逃げ出したという。おそらく、それらの全ては、兼家より指図された行動であったろう。 だが、僧侶の厳久は、道兼が逃げ出した後も、花山天皇の傍らにあった。そして、彼こそが、花山天皇に出家を完遂させるという、最も重要な役割を担ったのであった。 ■実行役の僧侶は大出世 ただ、この厳久については、花山天皇の出家に関わる以前のことは、何もわかっていない。もちろん、そんな身元も不確かな僧侶であるから、花山天皇の出家があった時点では、何かしらの役職に就いてもいなかっただろう。彼をめぐっては、そもそも、どうして宮中に出入りできたのかが不思議なほどである。 ところが、この厳久は、花山天皇が退位して一条天皇が即位するや、にわかに陽の当たる場所に顔を見せはじめる。 彼の最初の晴れ舞台は、永延元年(九八七)の五月に摂政兼家が催した大きな仏事であった。『小右記』によれば、厳久は、その仏事において、人々に説法をする講師の役割を与えられたのである。ちなみに、権力者が主催する大きな仏事で講師を務めることは、王朝時代の僧侶たちにとっては、出世の階段に足をかけることと同義であった。 やがて、長徳元年(九九五)十月、朝廷から権律師に任命された厳久は、ついに高僧の仲間入りをする。そして、藤原行成の日記である『権記』によれば、これは、東三条院詮子の推挙によるものであったらしい。また、厳久は、新たに建立された慈徳寺に別当(責任者)として迎えられることになるが、この慈徳寺は、東三条院詮子が建てた寺院である。 ■藤原氏の全盛期はこうして生まれた… その後も、長保元年(九九九)に権少僧都に転じた厳久は、同四年には権大僧都へと昇進する。また、それとともに、ずっと慈徳寺別当をも務め続けた厳久であるが、彼の目立った活躍の場は、ほとんど常に、東三条院詮子こそを檀主(だんしゅ)とする慈徳寺での仏事であった。 かくして、厳久が詮子に従属する身であったことは、疑うべくもあるまい。そして、その厳久こそが、花山天皇の出家をめぐって最も重要な役割を果たしたのであれば、花山天皇を出家させるという謀略は、やはり、東三条院詮子こそが主導したものであったろう。 ———- 繁田 信一(しげた・しんいち) 歴史学者、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員 1968年、東京都生まれ。東北大学・神奈川大学の大学院を経て、現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学国際日本学部非常勤講師、博士(歴史民俗資料学)。主な著書に『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー)、『陰陽師』(中公新書)、『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』(吉川弘文館)、『下級貴族たちの王朝時代』(新典社)、『知るほど不思議な平安時代 上・下』(教育評論社)などがある。 ———- プレジデントオンライン […]

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