歴史で習う「西郷隆盛は征韓論者」がどうも違う訳 武力を背景にした強硬路線に異論を唱えていた

歴史で習う「西郷隆盛は征韓論者」がどうも違う訳 武力を背景にした強硬路線に異論を唱えていた

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。 しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。 大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第37回は、欧米視察から帰国した大久保と西郷の関係性の変化についてについて解説します。 <第36回までのあらすじ> 薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。 ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しに。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫る。その後「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。 勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷の復帰に尽力。西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変。坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。 武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷。ところが慶喜が打った起死回生の一策「大政奉還」に困惑。さらに慶喜の立ち回りのうまさによって、薩摩藩内でも孤立してしまう。 一方、慶喜もトップリーダーとしての限界を露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。 大久保利通が留守の間にすっかり変わっていた政府 確かに日本は欧米に比べて、大きく後れをとってしまっている。しかし、地道に国力をつければ、ドイツのように後進の小国でも、列強と渡り合える近代国家へと成長できるはず。大久保利通は1年5カ月にもおよぶ岩倉使節団での海外経験を経て、そんな手ごたえをつかんでいた。 これからの日本はドイツを目指す。そして自分はドイツの鉄血宰相ビスマルクになろう――。そう意気込む大久保だったが、帰国して政府に復帰してみれば、あまりのことに愕然とする。 「これはいったい、どういうことなのか。私が留守の間に、すっかり変わってしまっているではないか……」 わが目を疑うとは、このことだろう。大久保がいない間に、大蔵省の権限が大幅に縮小されていたのだ。予算配分をめぐって、大蔵省は各省と対立して孤立していた。なかでも、舌鋒鋭く大蔵省を批判したのが、司法卿の江藤新平だったという。 何かと予算を減らしてくる大蔵省に激怒した江藤は、大蔵大輔を務める井上馨にこう食ってかかっている。 「あなたは口ではつねに経済のためだというが、経済とは経世済民の道だ。必要に応じて経費を按排(あんばい)するのが経済の本来の目的のはず。あなたのいう経済はただ算盤勘定だけで、真の経済とはいえない」 司法省だけではない。初代文部卿の大木喬任も大蔵省を激しく批判し、井上と対立した。ちなみに大木と江藤は、ともに元佐賀藩士で盟友同士である。明治政府を牛耳る薩長閥への反感があったことは言うまでもない。 スキャンダルを追及して井上を辞職に追い込んだ 弁が立つ江藤は、司法卿という立場で井上のスキャンダルを追及している。井上が不当な証文で尾去沢鉱山を差し押さえたうえに、私物化をたくらんだと指摘。逮捕にまでは至らなかったが、井上を辞職に追い込むことに成功した。 これが大久保の留守中に行われたことである。腹心の井上が追い出されただけでも大久保は不本意だったが、さらに政府高官の人事にまで手がつけられていた。あろうことか、井上を追い詰めた江藤と大木が参議に登用されているのだ。これによって佐賀藩の勢力が一気に拡大する。 「使節団が戻ってくるまでは大きな改革はしない」 欧米へ出発する前に、岩倉使節団と西郷隆盛が率いる留守政府との間で、こんな約束が交わされていたが、完全に踏みにじられることとなった。 さらに大久保を戸惑わせたのは、朝鮮への兵の派遣が検討されていたことである。なぜ、そんな話がでてきたのかといえば、鎖国政策をとる朝鮮政府となかなか国交が結べないことが、その背景にはあった。 明治新政府の樹立にあたって、朝鮮とは新たに国交を結ぶべく何度となく呼びかけてきたが、朝鮮政府は国書の受け取りを拒否。それも無理はないだろう。明治政府はまだ誕生したばかりで、どこまで長続きするかわかったものではない。日本が急速に西洋化を進めていることも、朝鮮政府の警戒心を強めた。 その後も、国交を巡る交渉が難航するなかで、釜山にある日本公館をめぐってトラブルが発生。事態を受けて外務省からはこんな方針が掲げられ、正院(内閣)での審議が申請されることとなる。 「居留民保護の名目で陸海軍を派遣して、武力を背景に交渉するのがよいのではないか」 かつて、アメリカのペリーにやられたことを、今度は日本が朝鮮相手にやってやろう、というわけだ。閣議では、板垣退助が外務省案にいち早く賛成を示している。 西郷は「朝鮮政府に礼を尽くした交渉を行うべき」 多勢が板垣に従うように強硬路線に傾くなか、異論を唱えた人物がいる。西郷隆盛である。西郷は次のような意見を述べた。 「まずは使節を派遣し、朝鮮政府に礼を尽くした交渉を行うべきだろう」 これに太政大臣の三条実美も賛同して、最終的には板垣も西郷の意見に賛同。朝鮮への使節派遣が決まっている。 つまり、西郷は朝鮮に出兵しようという「征韓論」をむしろ食い止めたことになる。にもかかわらず、西郷が征韓論者だったとされるのは、板垣に宛てて、こんな手紙を送っているからだ。 「朝鮮側は使節を暴殺するだろうから、開戦の口実となりうる」 この手紙が西郷の本音ならば「征韓論者」だろう。そうではなく、板垣らの強硬論者を説得するための方便ならば、あくまでも平和裏での解決を求めたといえよう。 どちらだったのかは西郷のみぞ知るところだが、一つ確かなことがある。それは、西郷自身が「自分を使節に任命してほしい」と唐突に、かつ、強く望んだということである。 いうまでもなく、本来ならば、西郷がやるべき仕事ではない。三条実美も外務卿の副島種臣を使節にしようと考えていた。副島は特命全権として清にわたり、外交上の成果を上げている。その手腕を買っての人選だ。 それでも西郷は「自分が使節として朝鮮にいく」と言って譲らない。一方で、西郷が朝鮮にわたることに反対する声も上がり、三条実美は悩ましい立場に追い込まれていく。 大久保が帰国したときには、そこまで話は進んでおらず、朝鮮に使節を送るかどうかについて、内閣では議論がなされていた。 大久保はどうしたかといえば、そんな政府を尻目に「われ関せず」という態度を貫いた。参議でもない大久保は議論に参加できない。ならば、いても仕方がないと割り切ったのだろう。暑中休暇をとって関西方面の旅行に出かけてしまう。 いつでも大久保は自分が不利な場面では、決して動かない。政敵として台頭した江藤新平のことも、内心は敵意を燃やしながらも、まだ行動には表さなかった。 あわてずとも、政局は必ず動き出す。大久保の頭にあったのは、岩倉使節団の帰国である。岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らが帰国すれば、否が応でも状況は変わる。ただ、そのときを見定めていた。 休暇前に西郷と会談した大久保 大久保は休暇で東京を離れる前に、西郷と会談している。西郷のほうは、大久保が帰国する直前、明治6(1873)年5月10日に陸軍大将兼参議に任命された。今や西郷は軍事と行政の両面でトップになったことになる。 両者の会談がどのように行われたのかはわからない。大久保からすれば、留守政府での勝手な行動を許した西郷への怒りは、当然あったことだろう。また、これから国力を高めるときに、朝鮮出兵などを議論している場合ではない。言いたいことは山ほどあった。 しかし、これから大久保が考えている「殖産興業」を実行するには、西郷の突破力が必要だ。西郷と敵対したくはないから、意見を戦わせることはなかったのではなかろうか。 では、西郷はどんな気持ちだったか。「日本はドイツを目指そう」と大久保に力説されても、心動かされることはなかったのではないか。 実は、西郷は5月26日に大久保が帰京すると、5月末から6月上旬にかけて、辞職を検討していた。大久保に任せられるものならば、任せたい。激しい胸の痛みに苦しめられて、体調もよくなかった。 大久保が海外に去ったのち、西郷は廃藩置県で怒れる島津久光の対応に追われている。大きなストレスに苦しめられたのも、体調不良につながったのだろう。 「国家の大事なときに、お前は何をやっていたのか」 […]

元の記事の確認はこちらクリックでお願いします。 www.msn.com

この記事を書いた人

目次