源頼朝はなぜ、2度にわたって娘・大姫の入内を画策したのか? 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第24・25話

源頼朝はなぜ、2度にわたって娘・大姫の入内を画策したのか? 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第24・25話

部下を次々に粛清し、娘・大姫の入内工作を画策する源頼朝。その​動機はいずれも「後継者問題」だった! 『頼朝と義時』 (講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第24話「変わらぬ人」、昨日放送の第25話「天が望んだ男」について、専門家の視点から見たみどころを解説してもらいました。 『鎌倉殿の13人』の第24話では大姫(源頼朝の長女)と源範頼の死、第25話では源頼家の長男である一幡(いちまん)の誕生と頼朝の落馬が描かれた。死におびえ、疑心暗鬼に陥る源頼朝を支えつつも、北条氏の生き残りを冷静に計算する北条義時。そこにはかつての純朴な青年の面影は既にない。歴史学の観点から第24・25話のポイントを解説する。 源範頼の失脚と東大寺落慶供養 建久4年(1193)、曾我事件の余波で、源範頼が謀反の嫌疑を受けた。範頼は起請文(きしょうもん)を提出して身の潔白を示そうとしたが、「源範頼」と署名し、「源」の一字を用いたことを大江広元に咎められ、かえって事態が悪化した(『吾妻鏡』建久四年八月二日条)。 さらに8月10日、頼朝寝所の床下に潜んでいた範頼の腹心の勇士である当麻太郎が捕らえられた。範頼は頼朝の考えを知るために偵察として当麻を放ったようだが、頼朝暗殺を企んだと見られても仕方ない。ここに範頼の失脚は確定した。 範頼は独断専行の多かった義経と異なり、平家追討戦でも常に頼朝の指示を仰ぐ従順な弟であった。既に一条忠頼(武田信義の嫡男)・板垣兼信(信義の三男)・多田行綱ら頼朝を脅かしかねない源氏の有力武士は暗殺・追放されていた。範頼の粛清も、この流れに位置づけられる。 8月17日、範頼は伊豆に流され、その後消息不明になるので、おそらく暗殺されたと思われる(『吾妻鏡』をはじめ、信頼できる史料には範頼の死に関する記述はない)。同時期、旗揚げ以来の老臣である大庭景能(かげよし)・岡崎義実(よしざね)が出家している(『吾妻鏡』建久四年八月二十四日条)。範頼との関係が疑われ、引退を余儀なくされたのではないか。 頼朝に忠実で慎重な範頼が謀反を計画していたとは思えず、冤罪の可能性がある。頼朝が謀反を口実に範頼を粛清したのだろう。その背景には後継者問題があった。嫡男の頼家はまだ12歳、頼朝に万が一のことがあれば頼家の立場は危うい。そもそも頼朝が義経に対して冷酷であったのも、頼家のために武勇に優れた義経を排除したという側面があった。 範頼の粛清から間もなく、甲斐源氏の安田義定・義資(よしすけ)父子も粛清された。これも頼家を脅かす源氏一門の排除が目的だろう。 こうして頼家の後継者としての地位を安定させた頼朝は、建久6年2月に2度目の上洛を行う。北条政子、長女大姫、嫡男頼家を伴っていた。 頼朝は3月4日に入京し、12日には東大寺大仏殿の落慶供養に出席した。平家の焼き討ちによって焼失した東大寺の再建は、治承・寿永の内乱の最中から進められた。朝廷は当時高野山にいた高僧の重源(ちょうげん)を大勧進に任命し、資金調達を任せた。 宋(中国)に渡海した経験を持つ重源は寄付金を集めると共に、宋の工人である陳和卿(ちん・なけい)を招請するなど技術者集団も組織した。頼朝も重源の大仏殿造営事業に多大な支援を行ったので、スポンサーの立場で再建供養に臨んだのである。 落慶供養には後鳥羽天皇や九条兼実も参列し、平和の到来と公武協調をアピールする場にもなった。ただし、頼朝は大軍で東大寺の周囲を厳重に警備させた。警備の御家人たちと東大寺衆徒の間で喧嘩も起こってしまった。 また陳和卿は、頼朝が戦争で多くの人命を奪ったことを理由に、頼朝との対面を拒否した(『吾妻鏡』建久六年三月十三日条)。むき出しの暴力によって築かれた鎌倉幕府への反発は強く、頼朝は公武協調路線をさらに進める必要に迫られていた。 大姫入内計画とその挫折 源頼朝の上洛の目的の1つは、大姫を後鳥羽天皇の后にするという入内工作を行うことにあった。頼朝は3ヶ月以上も京都に滞在し、後白河院の愛妾だった丹後局や、丹後局が産んだ皇女宣陽門院(せんようもんいん)、宣陽門院の後見役である土御門通親(つちみかど・みちちか)らに接近した。丹後局や通親は後鳥羽に対して強い影響力を持っていたからである。 頼朝は莫大な贈り物や荘園回復の申し入れによって丹後局の歓心を買おうとした。一方、九条兼実との関係は疎遠になっていった。 実は頼朝の大姫入内計画は既に建久2年(1191)の時点で浮上していた。これは、後白河との関係強化を目指したものだったが、後白河の死によって白紙に戻った。兼実は既に娘の任子(にんし)を入内させており、頼朝は大姫の入内を強行すれば兼実と衝突することになる。後白河死後、頼朝は兼実を政治的パートナーに選び、兼実との摩擦を避けて大姫入内を凍結した。 その頼朝が再び大姫入内を画策した。頼朝の動機はどのようなものだったのだろうか。 一般には、天皇の外戚として権勢をふるった平清盛のやり方を踏襲したと考えられている。年をとった頼朝がかつての冴えを失い、武家政権の首長、鎌倉殿としての誇りを捨てて、朝廷の権威にすがった失策という評価である。 けれども、平家一門の哀れな最期を目の当たりにした頼朝が、後白河を幽閉し朝廷を壟断(ろうだん)するという強引な手法によって大規模な反平家闘争を招いた清盛と同じ轍を踏むはずがない。そもそも、鎌倉に拠点を構える頼朝が天皇の外戚として朝廷を牛耳ることは不可能である。 逆に中世史研究者の佐藤進一氏は、後鳥羽と大姫との間に産まれた頼朝の外孫を鎌倉に迎えて、東国独立国家の王とするつもりだった、と推測した。だが論拠に乏しく、従えない。 頼朝の最大の動機は、頼朝の家、すなわち鎌倉将軍家の家格上昇であろう。もはや頼朝には何の権威も必要ない。頼朝に逆らう者など存在しないからだ。だが、頼朝死後、頼家が鎌倉殿になった場合はどうか。カリスマ性に欠ける頼家を権威で飾り立てる必要があった。今回の上洛にしても、元服を控えた(既に元服済みとの説もある)頼家を朝廷にお披露目することを1つの目的としていたのである。 大姫が後鳥羽の后になれば、頼家は天皇の義弟、大姫が産んだ男児が天皇になれば頼家は天皇の外叔父である。曾我事件によって後継者問題を改めて強く意識した頼朝は、自分のためというより、頼家のために入内工作を展開したのである。 しかし頼朝の大姫入内工作には大きな弱点があった。大姫が病弱であったことである。大姫は木曽義仲の嫡男である義高と許嫁だったが、義仲滅亡後、頼朝は義高を殺そうとした。 大姫らの手引きで義高は脱出したが、追手がかかり、殺されてしまった(元暦元年四月二十一日・二十六日条)。このことに大姫は強い精神的衝撃を受け、心に深い傷を負った。以後、大姫は病気がちになり、入内工作が行われる時期になっても好転していなかった。 建久8年7月、大姫は病死してしまう。同年10月には頼朝の妹婿である公家の一条能保(よしやす)が亡くなった(『愚管抄』)。頼朝が対朝廷外交を行う意欲と手段を失った隙をついて、土御門通親は建久9年正月に外孫である為仁(ためひと)親王の即位を強行した(土御門天皇)。 為仁の父である後鳥羽は上皇となり、院政を開始する。頼朝はわずか4歳の為仁の即位に難色を示したが、朝廷の説得により止む無く了承したという(『玉葉』建久九年正月七日条)。 いよいよ次回は源頼朝の死が描かれる。頼朝の義弟として重用されてきた北条義時にとって大きな試練と言えよう。義時の「独り立ち」に注目していきたい。 バックナンバー(最新5回分) 第14・15回: 歴史書を読み解くと見えてくる、上総広常が粛清された「本当の理由」 第16・17回: 一の谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった!? 第18・19回: 源平合戦の英雄・源義経の孤立と没落は「必然」だった!? 第20・21回: 総勢28万騎!?必要以上の大軍を率いて源頼朝が奥州合戦に挑んだ理由とは? 第22・23回: 誰が頼朝を殺そうとしたのか?曾我事件の黒幕候補を徹底考察 もっと記事を見る

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