真田信綱

真田信綱
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昌幸の兄・信綱は、武田家でも一目置かれる豪勇の士

武田信玄、勝頼の2代に仕えた真田幸隆の長男。昌幸の兄にあたる人物です。天文6年(1537年)生まれ、天正3年の長篠の戦で討死。

江戸期には、武田二十四将にも数えられた戦国武将で、幼名は源太。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将であったと言われます。

信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたといいます。
甥(昌幸の次男)の真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは、信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったからなのでしょう。

信綱はなんと、初陣の信濃小岩岳城攻めで一番槍の功名を挙げるなど、まさに豪勇の士であり、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されました。

兄弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられています。というのも、父・幸隆の活躍期が信綱の前半生の大半がかかるため、この時期の活躍の記録がほとんどありません。
しかし、父との連署も存在する事から、早い時点で、既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたと考えられています。

 

伝説の第4次川中島の戦いを初め、武田家の歴戦で活躍

『甲陽軍鑑』によれば永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたといいます。

永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である信綱が事実上支配していました。

元亀3年(1572年)、幸隆に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており、この頃には世代交代が済んでいるとも推測されており、史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年(1567年)までには継承が済んでいたものと思われます。

戦場ではもっぱら、父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦。

永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げました。

その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたとも。

元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦い(対・徳川家康)では武田軍の先手を務めて奮戦しました。

天正2年(1574年)5月に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継ぎます。

 

長篠の戦で討死・真田の家督は昌幸へ

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀・青江貞を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死しました。享年39歳です。

真田家の家督は勝頼の命令により信綱の幼児らに受け継がれる事は認められず、武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承しました。

信綱を討ったのは徳川方だと言われる説もありますが、その他、織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ではないかとする説も。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されています。

信綱寺は、昌幸が位牌所として建立した寺であり、この南には古城と呼ばれる尾根があります。(※中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒ある地。)

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