真田信政は1597(慶長2)年、沼田城で真田信之と正室・稲(小松姫)の間に信之の2番目の子供として生まれました。
その3年後、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、祖父・昌幸と袂をわかつことになった父・信之は、徳川方に付き従っています。
この当時、まだ3才だった信政は江戸の徳川家に人質として送られています。こうして忠誠をみせた信之に対して、家康は「吉光の短刀」与えたと言い、真田家に代々家宝として伝わりました。
やがて元服した真田信政は、1614(慶長19)年の大坂冬の陣と、翌1615(慶長20)年の大坂夏の陣では、病気を理由に参戦しなかった信之に代わって徳川方として兄信吉と共に参戦。しかし、残念ながら目立った活躍をみせるには至っていません。
兄・信吉の早世で、嫡男の立場へ
1622(元和8)年に、父・信之が上田から松代へ移封加増されることが決定します。信政はその際に松代藩の一部を支藩として与えられることになりました。(※埴科・1万石)
そして、沼田藩主を任されていた兄・信吉が亡くなると、信吉の長男・熊之助が4才で後継することになります。
しかし、3年後の1638(寛永15)年11月6日、その熊之助が7才という若さで亡くなったため、翌年の1639(寛永16)年、信政が沼田4代藩主を引き継ぐことになりました。(※この時、沼田3万石のうち、5千石は甥・信直※兄・信吉の次男に与えています。
この当時、信政は松代藩を引き継ぐ嫡男の立場にありましたから、信政が沼田の地に入ったことで、沼田藩主は真田本家を後継するための政務見習のような立場を形成することになりました。この沼田藩主時代に信政は新田の開発に尽力。沼田の石高を増やしていきます。
松代藩の家督を相続するも、わずか2年での死去。
1657(明暦3)年、父・信之の隠居にともない、信政は沼田藩を甥(兄・信吉の次男)の信直に譲り、松代藩10万石の藩主になりました。信政61才での出来事です。この時、信政が沼田から連れてきた側近達は「沼田侍」と呼ばれ、松代藩政で強い影響力を持つことになります。
やつと松代藩主になった信政、しかし病気が悪化して死期が近づいていることを悟り、自身の六男・幸道(右衛門佐)に家督を継がせることを遺言として残します。(信政は、信之が後継の問題。つまり兄・信吉系による相続のために松代藩主に居座っていると思い込み、父子間で対立があったとされています。そのためか、信政の遺言状には信之のことは一切書かれておらず、それを知った信之は立腹したと言います。※実際のところは、信之が何度も幕府に隠居を願ったが、将軍・徳川家綱が幼少などの理由で認められなかったため)
六男・幸道(右衛門佐)が家督を継いだ理由
また、徳川家光に随行して京都滞在中に、小野宗鑑尼(小野お通の娘である図子・二代目小野お通)との間に長男・信就が誕生しています。しかし、長男・信就は母・小野宗鑑尼が真田氏に入るのを遠慮したため、分家に出て旗本となりました。
次男の信守は17歳の正保2年(1645年)、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど、後継ぎには恵まれなかったと言えるでしょう。
信政が亡きあとにもおこる家督争い
信政が亡くなった後も、松代藩の家督をめぐって、六男・幸道(右衛門佐)と沼田藩主である信直との間で相続争いが起こります。しかし、父・信之が六男・幸道(右衛門佐)を擁立したことで、この家督争いは終わりを見せました。
しかし、支藩・沼田藩主の信直はこれに不満を抱いて、沼田での圧政を行うなど遺恨を残すことになります。