片倉久米之介守信(真田守信)~信繁の次男・幼名は大八~

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陸奥・仙台藩士として生きた人生

真田信繁と春・竹林院の次男として九度山時代に誕生。慶長17年(1612年)のことなので、信繁たちが大坂城に入城するわずか2年前になります。その3年後の大坂夏の陣(慶長20年5月)で、父・信繁は討死、兄・大助(幸昌)が切腹。この世を去りました。

徳川に対して一矢報いた敵将。それも代表的な活躍をした武将の血を引くわけですから、大八は本来であれば命をとられてもおかしくない立場にありましたが、高野山・蓮華定院に「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」などの記録が残るなど、落ち延びるために周囲の協力を得たものと考えられます。

その経緯については諸説ありますが、姉・阿梅(おうめ)、妹・阿菖蒲(おしょうぶ)と共に片倉重長によって保護されました。(※幸村が預けたのだとも、片倉家によって乱取りされたのだとも言われています。
その後、阿梅は重長の継室になるなどしたことから、大八も伊達家(仙台藩)に召し抱えられて片倉久米之介守信を名乗りました。これは大八が28歳の時のことであり、幕府によって信繁の子を匿っているのではないかと仙台藩が詮索されていたことによります。幕府からの詰問状に対して、伊達家では信繁の次男・大八は石投げで死んでいるなどと記録を持ち出して弁明。大八が信繁ではなく、真田信尹の次男・政信の子であるとして難を逃れました。

仙台藩は伊達家、扶持300石の武士として59歳まで生きた片倉久米之介守信(真田大八)。その子・辰信も同じく伊達家家臣として生き、その7代後(大八を始祖とする8代後)の子孫・真田幸歓( ゆきよし)の時、真田姓に復姓しました。時代は幕末、再び動乱の時代の最中のことでした。

そして、大八のご子孫は現在も仙台真田家として続いていると言います。

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