信玄公、曰く「我が両眼の如し」
戦国一の知将「真田昌幸」、幼名を源五郎。彼を形成した元服前の少年期。どのように過ごし、成長していったのか。その生涯についての記事投稿です。
天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として誕生。この当時、幸隆は海野平合戦で所領を失い、武田晴信(後の信玄)に臣従することで、旧領を回復していく時期になります。天文22年(1553年)昌幸7歳のころ、父・幸隆の活躍もあり武田信玄が村上義清を倒すと、幸隆は本領である真田郷を回復。昌幸を甲府へと人質に送ることで信玄への忠節を誓います。
信玄に、その才能を見込まれる
人の才能や能力を見極めるのに、鋭い眼力を持っていたとされる武田信玄。昌は人質であるにもかかわらず、奥近習衆に抜擢されます。(※奥近習・・・主君の側に仕え身辺の雑務の世話をするもの)これは、外様の出身者としては異例の待遇であったと言えるでしょう。
同じ奥近習出身の重臣には高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正とも)がいて、昌幸とは仲が良かったと伝えられています。
こうして少年期を信玄の側で過ごすことになった昌幸。ただ、側に召し抱えられただけでなく、相当な信用も勝ち得ていくことになります。
ある時、信玄の家臣の間で内輪もめがおき、昌幸の同僚の兄が殺害されます。犯人は落合彦助(武田信廉の家臣)で、この後逃亡。激怒した信玄は、落合の行方を追うべく、牢人衆の村井久之丞と荒川新之丞に上意討ちを命じます。首尾よく二人は落合彦助を討ち果たしてその首を持ち帰り、信玄の元へ。夏の盛りのことで腐敗した首は、本人のものであるか判別できませんでしたが、寵臣の仇討ちがかなったことに信玄は喜び、村井と荒川に知行地を与えると言いだします。
このことに対して、春日虎綱と内藤昌秀が信玄を諫めるのですが、その時引き合いに出されたのが、三枝昌貞、曽根昌世(※信玄から、我が両眼の如し。と評されたもう片方の眼の人です。)そして、昌幸でした。
この三人が、村井と荒川をどのよに評していたか?
「上意を果たしたと吹聴している村井と荒川は要注意人物で信用ならない。なぜなら、信玄から好かれている人間に取り入り、外様衆には冷淡な態度を取る。しかも褒章を与えられた人物を敬うが、信玄の怒りに触れて遠ざけられると、今度は態度を豹変させる。そんな人物のことを信頼して良いものか?そうした性根のものは、自分の立身のためなら、手段を選ばず手柄を取ろうとし、出世の糸口を探ろうとするであろう。きちんと調べてから知行を与えるのが良いのではないだろうか」と噂をしていたといいます。
これを春日虎綱と内藤昌秀から聞いた信玄は、思いなおして知行を与えず、褒賞のみで上意討ちの功績としました。
この後、川中島の戦いで上杉謙信の軍勢から落合彦助が現れて、武田勢に向かって名乗りを上げると村井と荒川の不正が発覚。結局ふたりは夜逃げします。
このエピソードのころ、昌幸はまだ15歳ですが、人を見る眼があったことと、信玄がその人物評に一目置いていた証拠と言えるでしょう。
家臣・牢人衆の人物評は昌幸らの役目
こんな風に伝え聞くと、告げ口係りのように感じてしまいますが、時は戦国時代。良い人材を発掘することは最重要課題です。信玄は家臣の中から密かに6人を選抜。家中の人をつぶさに観察させて自分に報告するよう命じていました。その6人の中に選ばれていた昌幸。人物評のチェックポイントは
・古参、新参の区別なく手柄話に虚実の程度の度合い
・同僚との付き合い方
・身分の高い・低いに関わらず、人へ接しているか
・武具の手入れや入れ替えに注意を払っているか
・武具に凝ってはいても、鍛錬に怠りはないか
などであったといい、一切の長所・短所を報告するよう命じています。なかでも、前述の三枝昌貞、曽根昌世、そして昌幸は仕官する牢人衆の最初の対応にあたったとも言われ、その人物をまず観察し、それぞれが仕官の申請を披露するのが慣例となっていました。私心ない昌幸らの人物評を信玄は信用し、評価していたものと思われます。
こうして少年期、信玄のもとで様々なことを学んだ昌幸は永禄4年(1561年)に初陣。武田信玄と上杉謙信の最も激しい戦いであったと伝わる、「第4次川中島の戦い」に参戦することになります。