著名な文化人とも交流を深めた才能あふれる花魁(おいらん)
太夫(たゆう)は、たいふとも言い最上位の遊女のこと。尊称としてこう呼びました。
広義では格式の高い芸能人を指します。
戦国期を生きた初代・吉野太夫(よしのだゆう)。容姿、芸、人格ともに優れたと言われた、京都・六条三筋町・遊郭を代表する名妓。夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」に数えられました。
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)などの著名な文化人とも交流があったとされており、後年に「吉野太夫」は代々伝わる名跡となりました。
※吉川英治「宮本武蔵」に登場し武蔵をこっそり助けるのが、この初代・吉野太夫です。
後に10代目まで続く吉野太夫
残念ながら初代の歴史資料は少ないのですが、記録が多く伝わっているのが、二代目・吉野太夫(松田徳子、、慶長11年(1606年)生まれ)です。
実父はもと西国の武士(※時代を考えますと、関ケ原以後、苦労したことが伺えます。)と伝わり、14歳のときに吉野太夫を継ぎました。
逸話を多く残している、この二代目の存在が、「吉野太夫」の名をさらに広めます。
初代と等しく、たいへん利発な女性であったと伝わる二代目。
和歌、連歌、俳諧はもちろん、管弦では琴、琵琶、笙が巧みにこなしただけでなく、書道、茶道、香堂、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極め、諸芸はすべて達人の域にあったと言われ、当時18人いた太夫の中でも頭ひとつ抜けた存在だった二代目・吉野太夫は、日本国内のみならず、遠くは明(中国)まで彼女の名は知れ渡っていたというほど。
馴染み客には、後陽成天皇の皇子で、関白・近衛信尋(のぶひろ)や、京都の豪商で、茶の湯・歌道など諸芸に秀でた、当時の文化人の一人、灰屋紹益(はいやじょうえき)らがいました。
※関白・近衛信尋は秀吉から数えて、10代後(約30年後)の関白になります。
皇族から政財界、文化人まで幅広い層の第一級の人物が彼女のファンになっていたということですね。現代で言うところの、アイドルや女優さんに近いと思われます。
二代目の名をさらに華やかに高めたのは、この近衛信尋と灰屋紹益が彼女の身請けを競ったため。
結果は灰屋紹益が勝利を収め、吉野太夫を正妻として迎え世間を驚かせました。(妾ではなく正妻。1631年(寛永8年)、吉野太夫26歳のときのことです。)
その後、吉野太夫は結婚生活に入ると、遊女時代のきらびやかな暮らしとは無縁の質素な生活を好み、夫を立てて親族との交わりをたいへん大切にしたと言われています。
そのため、後世、遊女の鑑(かがみ)として語られました。
しかし当時としても短命に終わる人生。十余年の結婚生活の後、吉野太夫は夫・紹益に先立って病没。まだ38歳の若さでした。