沼田領問題勃発、昌幸は家康と断交を決意
天正壬午の乱以後、天正13年(1585年)の4月から6月にかけて、徳川家康は甲斐の国に出陣し、甲府に入っています。名目は、沼田・吾妻領の北条への引き渡しの件についての昌幸への説得でしたが、実際のところは、その軍事力を背景にした圧力を真田家に与えることにより、沼田領の問題を解決したいとの思惑からでしょう。
こうして家康は、甲府から真田家へ使者を送り、「沼田を北条へ渡せ」と昌幸に対して命じています。
※この時、北条・徳川間の天正壬午の乱の和睦条件、「甲斐の都留郡と信濃の佐久郡、諏方郡の割譲」について北条家の方では既に履行していたことから、徳川に対して再三、北条方は沼田割譲を申し渡していました。
しかし真田昌幸は、沼田領が徳川から与えられたものではなく、自力で確保した領地であることから、この申し付けに対して断固拒否の姿勢を貫きます。また家康は、真田が徳川に従属した際に約束されたはずの、諏方郡および甲斐における知行2000貫文という約束も反故にしており、昌幸が不信感を抱くのも無理はなかったと思われます。結局、昌幸は「家康など主君として仰げるものか」と断交を決意するのでした。
景勝、積年の宿怨を越えて昌幸を支援
もはや、徳川との決戦不可避の状態に迫られた昌幸は、一度は裏切っている上杉家に服属する交渉を持ちかけます。この申し出を景勝は了承。天正13年7月15日、9か条に及ぶ起請文(きしょうもん ※自己の行動を神仏に誓って遵守履行すべきこと、違反した場合は罰を受ける旨を記す場合もある)を昌幸に与えます。
・再度、上杉に忠誠を尽くすことになったからには、見捨てることはしない。
・敵(徳川・北条)が攻めてきた際には、援軍を真田に対して派遣する。
・今度は何か密謀の噂があっても良く調査する
・沼田・吾妻・小県郡の所領の安堵
上記、4条に他・5条を加えた合計9条でした。
※この時期に昌幸は景勝了承のもと、秀吉との交渉も開始しているものと考えられています。
昌幸の離反を知り、家康は家臣を出陣へ
昌幸の離反が家康のもとに伝わると、すぐに真田征討を決意。8月8日には甲府に滞留していた平岩親吉に、甲斐の武士を招集するよう命令。そして小諸にいた大久保忠世の指示のもと、直ちに出陣するよう命じています。
※ただし、家康自身は西の秀吉の動向を注視するため出陣できず。このことは上田合戦の勝敗に少なからず影響を与えたと言えるでしょう。