没落した自家を算術の能力で復興させた行政官
豊臣政権下、五奉行の一人にも数えられた長束正家。父は水口盛里といわれ、元は水口城を居城とする水口を名乗った家系に生まれましたが、水口城が落城したため長束村に居住。正家は長束を名乗るようになります。
後に豪商となるような近江商人を数多く輩出することになる地域で育った正家。武家に生まれながらも、自家が没落していたことが彼に特殊な能力を身に着けさせる一因となったのかも知れません。同じ近江出身の石田三成らと同じく算術の能力に長けた正家は、初め丹羽長秀に仕えますが、やがて長秀が秀吉に大減封処分を受けてしまいます。財政上不正があったなどと豊臣家より糾弾された長秀だったのですが、正家は帳簿を証拠としてこれに抵抗。 その能力に目をつけた秀吉の直参となり、天正13年(1585年)には豊臣秀吉の奉公衆(※ほうこうしゅう=秀吉に近侍する官僚)に抜擢されました。
こうして正家は、高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たります。
天正14年(1586年)の九州平定、天正18年(1590年)小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍。20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにします。史上かつてない規模の軍勢を秀吉が動かすことが出来たのは、間違いなく正家ら、秀吉直下の家臣の兵站能力にあったに違いありません。(※後の徳川による大坂城冬の陣の攻略を考えても明らかと言えるでしょう。)
またこの間にも、正家は本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正18年(1590年)には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなどして、徳川家との関係は深かったものと考えられます。
そして、文禄4年(1595年)には近江水口城5万石を拝領。五奉行の末席に名を連ねるなどして出世を遂げたほか、慶長2年(1597年)には12万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任しました。
秀吉の死後、狂いだす運命。三成とともに豊臣家のため奔走。
しかし秀吉没後、次第に運命の歯車が狂いだします。正家は石田三成方に与して家康打倒の謀議に参加するなどしますが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康の会津征伐(上杉征伐)の中止を嘆願しますが聞き入れられないなど失策を重ねます。(※家康暗殺を謀ったとも)
そして慶長5年(1600年)には三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵。圧倒的優位に立ちながらも、城将・鳥居元忠の奮戦に阻まれて苦戦する伏見城攻めに兵を送り、正家家臣の甲賀衆・鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く功をあげました。さらに、8月下旬には伊勢安濃津城を攻略(※安濃津城の戦い)。この後、正家は大垣城へと向かっています。
天下分け目の戦い
まさに正家にとっては正念場の関ヶ原の戦い、毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣して、合戦前から浅野隊と交戦、池田輝政隊とも銃撃戦を展開するなど積極的に攻めかかる正家ですが吉川広家の妨害に遭い、毛利秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦には参加できませんでした。やがて西軍が壊滅すると撤退。このとき島津隊の撤退を助けるために道案内に家臣を遣わしたとも言われています。
戦場離脱後は水口城を目前に敵軍勢の攻撃を受けて敗走、正家は松田秀宣の活躍でなんとか入城に成功しますが、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉の策略に欺かれ捕縛されました。捕えられた正家は切腹。享年39才。重臣6名も切腹させられ、正家の首は京都三条橋で晒されたと言います。
真田丸では・・・
三成の心情にスポットをあてた三谷脚本。通常、大河ドラマなどではあまり登場のみられない長束正家ですが、徳川家との関係性など考えての、登場が必要な人物だったということでしょう。また、シリーズ後半の大きな山場、大坂城の出城・真田丸での攻防への伏線として、伏見城がフューチャーされていることも理由のひとつと思います。また、伏見城の戦いは、忍びの者の心の葛藤の戦いでもあり、とりあげられるとすれば今までにないシーンが期待できることと思います。