実は種子島伝来以前に日本に伝来していた火縄銃。
15世紀前半にヨーロッパで発明され、1543年(天文12年)に種子島に伝来(「鉄炮記」より)されたとされる、マッチロック式(火縄式)銃は火縄銃と呼ばれ、戦国期、またたく間に日本全国に拡がりました。昨今では、それ以前に伝わっていたとの説が有力で、倭寇などにより、日本の複数の地域に持ち込まれて、早くから猟銃として用いられていたのではないかと言われています。
やがて、近江の国友、同じく日野、紀州の根来、和泉の堺などが鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇るに至ります。戦国時代末期にもなると、一説に日本国内の鉄砲流通数は50万丁以上のぼったともいわれ、これは当時、世界最大の規模を誇りました。
日本独自の発展を遂げる火縄銃。その種類もバラエティ豊かなものに。
こうして日本に伝わった火縄銃は独自の発展を遂げ、実践の場に登場して用いられていきます。織田信長が武田軍を打ち破った長篠での馬防柵を用いた戦いでは、日本史上初となる鉄砲を主戦力とした戦術をとりました。また、信長自身は鉄砲名人・杉谷善住坊(※善住坊は甲賀忍者、あるいは雑賀衆、根来衆、また猟師などとも)に狙撃されるなどしており、これはこの時代、武器として火縄銃がいかに日本に浸透していたかをあらわすエピソードと言えるでしょう。
こうして火縄銃は戦略上の発展だけでなく、その種類も増え、生産地におけるブランド区別の他、弾丸の重量や銃身の長さなどからも分類されるほどになり、その中には、汎用性が高く鉄砲足軽などが広く使用した、弾丸重量が二匁半(11.79mm)程度の小筒や、その使用に十分な鍛錬を必要とした侍筒(さむらいづつ)と呼ばれる弾丸重量が小筒の4倍にものぼるものも存在するなど、カテゴリーも豊かなものになっていきます。やがて銃身がより短く拳銃に近い、馬上筒(ばじょうづつ)なるものも登場。重量のある火縄銃を馬上で用いるため小型化された馬上筒。命中率を上げる発明(※ライフリング)以前のこの時代の火縄銃は、極端に短くしたところで命中率への影響はさほど大きく無かったことから開発が可能だったのでは、と言われています。
「南紀徳川史」に残る、幸村の馬上筒伝説
紀州徳川家「南紀徳川史」(徳川茂承によって編纂が開始され1901年に完成した歴史書)。この書物に真田幸村(信繁)が大坂夏の陣で家康を追いつめ、馬上筒で狙撃しようとした際、馬が揺れて手にしていた馬上筒を落としてしまったため家康は家臣に守られ逃げることができたという記述があります。この後、真田隊は敗退、幸村は討たれてその命を落としました。
その際、幸村が落とした馬上筒が紀州徳川家に伝わって、明治時代まで密かに保存されていたと言われています。
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