源実朝暗殺の真の黒幕は誰か!? 歴史学者はこう考える

源実朝暗殺の真の黒幕は誰か!? 歴史学者はこう考える

源実朝の暗殺には、真の黒幕がいた!? 『頼朝と義時』 (講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。今回は、先週放送の第45話「八幡宮の階段」、昨日放送の第46話「将軍になった女」について、専門家の立場から詳しく解説します。 『鎌倉殿の13人』の第45話では源実朝暗殺事件、第46話では阿野時元の乱と新鎌倉殿・三寅の鎌倉下向が描かれた。鎌倉殿の突然の死による幕府の混乱を収拾しつつ、後鳥羽上皇との駆け引きに奔走する北条義時。しかし、果断にして冷酷な権力者の横顔には深い孤独の影が差していた。歴史学の観点から45・46話のポイントを解説する。 公暁、実朝を暗殺する 建保7年(4月に承久に改元、1219)正月27日、拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われた。『吾妻鏡』によれば、昼間は晴れていたものの、夜になって雪が降り、一晩で2尺(約60センチ)余りも積もったという。 拝賀の行列は酉の刻(午後6時ごろ)に御所を出た。多数の公家・御家人に加え、随兵1000騎という大規模な行列だった。八幡宮での拝礼を終え、退出しようと社前の石段を下っている時、実朝は突如殺害された。犯人は頼家の遺児である公暁(善哉)だった。 善哉は元久2年(1205)に鶴岡八幡宮の第2代別当である尊暁のもとに入室し、彼の門弟になっている。政子の計らいによるものである(『吾妻鏡』元久二年十二月二日条)。建暦元年(1211)には出家して公暁と名乗り上洛(『吾妻鏡』建暦元年九月十五日・二十二日条)、園城寺で修行を続けた。 北条氏は比企氏と血縁のない公暁の命を取らなかったが、かといって政治に関わらせるわけにはいかない。ゆえに仏門に入れたのであろう。実際、頼家の遺児はみな出家している。 建保5年に鶴岡八幡宮3代別当の定暁が亡くなると、公暁は政子の命で鎌倉に呼び戻され、鶴岡八幡宮4代別当に就任した(『吾妻鏡』建保五年六月二十日条)。政子は公暁に対し、将軍に就任できない代償として、鎌倉宗教界の頂点の地位を用意したのである。 だが公暁は現状に不満であった。同年10月11日に鶴岡八幡宮で神拝を遂げたものの、そのまま一千日の参籠に入ってしまった。そして公暁は参籠したまま退出せず、いくつかの祈祷を続け、髪も切らなかったため、人々はこれを怪しんだという(『吾妻鏡』建保六年十二月五日条)。 坂井孝一氏は「おそらく参籠中、園城寺で修行を積んだ僧侶として、実朝を呪詛する祈請をくりかえしていたのであろう。髪を切らなかったのは、呪詛によって実朝が死んだ後、還俗して自分が将軍になる準備であったとも考えられる」と推測している( 『源実朝』 講談社、2014年) さて『吾妻鏡』や『愚管抄』によれば、実朝を討った公暁は三浦義村に使者を送り、「私が征夷大将軍になるつもりだから、その準備をせよ」と伝えたという。 しかし義村はこれに従うふりをして、北条義時に通報すると共に、家臣を遣わして公暁を討たせた。上の記述によれば、公暁は実朝に代わって将軍たらんとする野心から暗殺を行ったことになる。世が世なら、自分が将軍になっていたはず、と公暁は考えていたのだろう。 実朝に子どもはいなかったから、実朝が死ねば、頼朝と政子の孫にあたり、かつ実朝の猶子である20歳の公暁は確かに将軍の最有力候補である。親王将軍擁立の噂を耳にし、慌てて暗殺を決行したのかもしれない。 しかし、いくら血筋は申し分ないとはいえ、現将軍を暗殺した者がすんなり次の将軍に就任するというのは難しい。公暁が将軍の地位を目指していたとしたら、単独で実朝暗殺に動くとは考えにくい。事前に有力御家人の支持を得ているはずだ、というのが通常の発想である。ここに「黒幕説」が生じる余地が生まれる。

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