家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略

家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略

城の西には天竜川、東には小さな川があったので、城内の者は、岸辺の高い崖に滑車をかけて水を汲んでいた。が、武田方が「大綱で筏(いかだ)を組み、上流から何度も何度も流して、釣瓶(つるべ:井戸で水をくむときに用いる、縄を取りつけた桶)の縄を切る」(前掲書)という挙に出たので、ついに11月末に開城する。 遠江に侵攻し、東美濃にも手を伸ばす信玄に、信長は激怒した。上杉謙信宛ての書状で、信玄の行いを「前代未聞」「無道」「侍の義理を知らない」「遺恨は尽きることはない」「国内の人々の嘲りを顧みないもの」「未来永劫、信玄と誼を通じることはない」と切り捨てている(11月20日)。 信長としては、信玄のために、武田・上杉の和睦に力を尽くしていたのに、その好意を無にされたと感じ、怒りが倍増したのではないか。信長は、起請文に血判を押し「信玄退治」を誓い、謙信と同盟を結ぶ。 家康のもとには、信長はまず、簗田広正を遣わしている。10月12日付の家康宛の書状に「表見廻りのため、簗田左衛門太郎を派遣した。自分の考えは簗田に十分、言い含めてある。万事、分別ある対応が大事だ」とある。 足利義昭からも家康に書状 信長は簗田を遣わし、家康側の備えを確認させるとともに、情報共有や、武田方の動きの最新情報をつかもうとしたのだろう。 注目すべきは、将軍・足利義昭からも家康に書状が出されているということだ。その書状には、信玄による遠江侵攻を案じる内容が書かれていたため、このことからも、将軍・義昭はこの時点では、信長・家康方の立場でいたことがうかがえる。 信長は、簗田だけではなく、しっかりした援軍を家康に送ってきた。『信長公記』には「ご家老衆の佐久間信盛、平手汎秀、水野信元らが大将となり出陣。遠州は浜松に到着」とある。 援軍は3000余だったと言われる。信玄も信長が浜松へ3000の軍勢を派遣したことを11月中旬には把握していた。武田軍は、二俣城の修理を終え、12月22日に出陣。家康が籠もる浜松城を攻めるかと思われたが、攻めよせることはなく、西に軍勢を向け、三河国に入る構えを見せた。 『三河物語』は、この辺りの徳川方の内情を記している。家康は、武田軍が浜松からわずかな距離のところまで迫っているのを見て、「一合戦しよう」と武田軍と戦う考えを周囲に告げる。 ところが、徳川の宿老たちは「敵の兵は3万。信玄は熟練の武者で、歴戦のつわもの。一方、我が方の兵は8000」と劣勢を理由に、主君の出撃を止めようとした。 家康はそれでも「兵数が少ないのは仕方がない。敵の大軍が自らの屋敷の裏口を踏み破り通ろうとしているのに、家に籠もり、咎めない者があろうか。負けたら、負けたときのことだ。ともかく、戦をしなければならない。戦は多勢無勢で決まるわけではない。天運による」と言い、ついに開戦が決定される。 家康としても、自軍が不利であることは十分承知であった。しかし、一戦も交えずに、敵を見すごしたとなれば、援軍を派遣してくれた信長に申し訳ない。援軍を送ってくるということは、戦えということである。 また敵を見すごせば、家康自身の侍としての名誉も立たなくなるだろう。遠江や三河の豪族が武田方に降伏していく現状もあり、それを食い止めるには、合戦し、存在感を示し、求心力を回復する必要もある。 とは言え、策もなく出陣しても、宿老たちが言うように、危険なだけだ。今、武田軍は三河方面に向かっている。そこを背後から急襲し、幾分なりとも打撃を与え、すぐに浜松城に引き返せば、損害も大きくならず、名誉も保てる。家康は、逡巡しながらも、最後にはそうした結論に達し、家臣が止めるのも聞かず、開戦を決めたようだ。 信玄による堀江城の攻略説も 一方で、歴史学者の平山優氏は、信玄が、浜名湖水運を掌握する要衝・堀江城(静岡県浜松市、城主は大澤氏)を攻略しようとし、家康はそれを阻止するために出陣、信玄に戦いを挑んだと説く(同氏『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書、2022年)。浜名湖水運が武田氏の手に渡れば、浜松への物資の輸送が困難になるからだ。そうなると、家康は籠城を継続することはできない。危機的状況に陥る。 さて、信玄の軍勢は、三方ヶ原(静岡県浜松市)で家康軍を待ち構えていた。信玄は、前述したように、家康が信長から援軍を送られたことを知っていた。援軍まで送られながら、我が軍の通過を見すごすはずはない、家康は必ず城から打って出てくると信玄は踏んでいたのだろう(前述の堀江城の件も、信玄の頭にあったであろう)。 それゆえに、武田方は三方ヶ原で「魚鱗の陣」(魚の鱗のような陣立て。軍を人の字形に展開させた攻撃用の陣)をしいて、待ち構えていたのである。 『三河物語』は「敵(武田軍)が丘から祝田(浜松市北区)へ半分ほど下っていたところで、攻撃をかけたなら、容易く勝てただろうが、逸って早く仕掛けてしまった」と残念そうに書いているが、信玄軍は待ち構えの態勢にあったのであり、戦の結果はそう変わらなかったであろう。 武田軍の「魚鱗の陣」に対し、徳川軍は「鶴翼の陣」(鶴が翼を広げたような陣立て。V字形に展開させた守備用の陣)を布く。 戦は、軍勢同士がぶつかって始まったのではない。『三河物語』によると「信玄はまず足軽を送り、小石を投げさせた」という。 『信長公記』にも緒戦(はじめの戦闘)で、「武田方は、水股の者(足軽か)を300人ばかり前線に立て、小石を投げさせ、その後、太鼓を鳴らし、攻撃をしかけてきた」とある。徳川軍を攪乱しようとしたのだろう。そして、いよいよ軍勢同士の乱戦となるのだ。 『三河物語』は、徳川軍は武田軍の小石攻撃を相手にせず、一斉に切り込んだと書かれている。そればかりか「一陣、二陣を打ち破り、敵の繰り出す兵も破り、信玄の本陣に殺到した」と徳川軍が善戦したかのように書いてある。 家康は大きな敗戦を経験 一方の『信長公記』には、緒戦で、信長が派遣した平手汎秀やその家臣、家康の身内衆の成瀬藤蔵が討死したことが記される。その後も、信長の小姓衆だった者が、先頭に立ち戦い、討死したことが記載される。徳川方が信玄の本陣にまで迫るほどの善戦をしたとは一言も書いていない。 さて『三河物語』の記述に戻ろう。同書は、徳川軍が信玄本陣に迫るほどの活躍を見せたものの、信玄の本陣からも鬨の声をあげて攻めかかってきたため、多勢に無勢、攻め返されて敗退したと記す。 戦いは、午後4時頃から始まり、2時間ほど続いたとされるが、家康はその生涯のなかでも特筆すべき、大きな敗戦を経験することになったのである。 (主要参考文献一覧) ・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017) ・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010) ・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書、2022) ・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版新書、2022) ・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックスPLUS新書、2022)

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