「どうする家康」マメ知識 清須会議の新説を検証 揉めに揉めた「信長後」 <歴史好きYouTuberの視点>

「どうする家康」マメ知識 清須会議の新説を検証 揉めに揉めた「信長後」 <歴史好きYouTuberの視点>

NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回8月13日(2023年)放送回は「第31回 史上最大の決戦」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり) 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供 「三法師が跡継ぎ」は会議前に確定 いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介しましょう。 今回は清須会議について解説していきたいと思います。本能寺の変で、織田信長亡き後の織田家を一体どう取り仕切っていくのかで、羽柴秀吉が天下取りへ邁進したきっかけになった会議でした。 実は最近、清須会議について新たな説がたくさん出ているんですね。どのような説なのか、見ていきましょう! <なぜ清須なのか?> 信長が死ぬまでは、安土城が織田家の本拠地でした。安土城でなくとも、信長の嫡男で織田家当主だった信忠が居城していたのは岐阜城なので、この会議は安土城か岐阜城で行われそうなのですが、わざわざ清須にしたのには理由がありました。 それは清須に、信長の嫡孫である孫・三法師がいたからです。 信長の嫡孫、つまり信忠の息子であった三法師はまだ3歳でした。もともとは岐阜城にいたのですが、本能寺の変によって信長、信忠が死んだことで、岐阜城がある美濃の国では明智方に付く勢力が相当数跋扈(ばっこ)していました。そこで信長の孫である三法師の安全を考えて、織田家の元々の本領である清須で会議が開かれたわけです。 「三法師に肩入れしすぎなのでは」とも思うかもしれませんが、実はこの清須会議が始まる前から、三法師が織田家の跡継ぎということは確定していました。 清須会議は、信長と信忠が死んでしまった後の織田家当主を誰にするかを決める会議ではなく、その幼すぎる跡継ぎの後見人をどうするかを話し合うためだったのです。後継争いという無駄な争いをしないために、能力や実務経験、そういうものに関係なしにとりあえず嫡流に継がせようというのが織田家の決定でした。 『川角太閤記』の影響から、秀吉が「跡継ぎには孫の三法師を」と口を出して決まったと思っていた人が大多数だったと思います。 なので、この清須会議の議題は、跡継ぎに確定しているまだ3歳の三法師が成長するまでの名代(後見人)を誰にするかという話し合いだったのです。その候補にいたのが、信長の次男・信雄、そして三男・信孝だったわけですね。 <深まる兄弟の確執> さあ、どちらを名代にするんだということで、この会議は大揉めしました。 次男の信雄は、織田家当主の信忠と同じ生駒氏という母親から生まれています。つまり、信長の息子たちの中でも信雄は貴種性がかなり上だったのです。あの有名な「京都御馬揃え」でも、信雄は馬30騎に対して三男の信孝は10騎しか率いていなかったと言われています。信忠が当主だったけれども、ほかの一門の弟たちに比べたら頭一つ抜きん出ているのがこの信雄だったわけです。 一方、三男であった信孝。兄の信雄と同年生まれだったとも言われていますが、母親の坂氏の身分が低かったことで貴種性はあまりありません。ただし、彼には明智光秀を討伐したという功績がありました。中国大返しをしてきた秀吉のバックアップがあったのは大きいですが、それでもまがりなりにも明智を討伐したので、しっかり信孝の功績として認められました。 そういうわけで血筋のいい貴種性のある信雄か、親と兄の仇討ちをした信孝かで揉めに揉めます。戦国武将なんだから、功績をあげた方が名代でいいのではと思うかもしれませんが、未来の織田家嫡流・三法師が、織田家の嫡流として天下人になるという話はもう貴種性一本槍です。信孝を名代に据えると、織田家への忠誠によって天下人が確定している三法師の存在が揺らいでしまいます。だからといって貴種性で信雄にしたら、今度は功績をあげた信孝をないがしろにすると、貴種性など関係なかった戦国武将の家臣たちに不信感が芽生えてしまいます。 その結果、秀吉を含む重臣たちは落とし所として、名代を信雄にも信孝にもしない選択をしました。清須会議に参加したといわれる柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、堀秀政。この重臣たち5人の合議制によって、三法師の名代をしていくことに舵を切ったのです。 秀吉への恨みふつふつと <厄介者になった滝川一益> 名代問題を片付けて残ったのは、領地の分配でした。この重臣たちの領地、さらに信雄や信孝の領地も再分配され、織田家は新しい枠組みでやっていくことになります。 秀吉は中国大返しをして明智討伐の手伝いをしたことで、この会議の中での発言力は強かったことでしょう。5人の中で、明らかに多くの土地を手に入れることが出来ました。 しかしここで忘れてはいけないのが、滝川一益です。関東一の支配を信長から任されていた、織田家の重臣中の重臣ですね。 一益が織田家の重臣であるにもかかわらず清須会議には参加していなかったのは、関東での「東国御一統」が影響していました。一益は、信長の構想のもと関東に本拠地を移し、「東国御一統」つまり関東を織田の名の下に統一しようとしていました。しかし一益が徳川家康と共に関東統一を目前にしたところで本能寺の変が起こり、北条家は織田家と断交を決意してしまいました。 織田家の重臣たちは、まさか信長が亡くなり、さらにその影響で一益が任されていた「東国御一統」に失敗してしまうなんて考えてもいませんでした。なので、関東を本拠地にしようとしていた一益には再分配もなく、もともと持っていた北伊勢の狭い領地しかありませんでした。 秀吉も一益のために動こうとしたらしいのですが、その時にはもう清須会議で再分配が終わっていました。それをまた白紙にして決め直すのは、なかなかに時間がかかります。そうして一益の加増要求は難航し、その結果一益は貧乏暮らしを強いられることになり、特に力を持って一番大きい領地を持っていた秀吉に対しての不満を、ふつふつと募らせていくことになります。 さらに一益のゴタゴタがあったせいで、なかなか織田軍は関東の方に兵を出すことが出来ず、このタイミングで徳川家康が関東を進撃していき、北条家とも和睦してしまったことで、大躍進を遂げることになりました。 これが俗にいう、天正壬午の乱です。 清須会議の決定を無視 <信孝にも原因有り?> そんな中で、織田家の三男の信孝が増長していくという事件が起きます。 まず信孝は美濃の国を与えられたのですが、その隣国の、兄・信雄が治めている尾張の国との境目について、かなり不満だったようです。そして、清須会議で決められた領地の国境を不服として、木曽川で勝手に大河切りをしてしまいました。最終的には柴田勝家・秀吉らによって信孝の要求は通らなかったのですが、この件で信雄と信孝兄弟はさらに対立し合う仲になってしまいます。 まだまだ信孝の暴走は止まらず、今度は三法師を自分の岐阜城に置いているのをいいことに政権を主導していこうとしました。信長の「天下布武」のように「弌剣平天下」という印判を使い出し、あたかも天下人のように振る舞っていったのです。 これに対して、やはり秀吉はいい感情を持ちませんでした。そもそも合議制で決めていこうと清須会議で決まったのに、それを無下にしているわけですから当たり前ですね。 とにかく信孝は、清須会議で決められたことを全く無視したわけです。 さらに信孝は、秀吉に対抗するために、織田家重臣筆頭で秀吉と肩を並べる軍事力を持っている勝家にも接近しました。このことで、信長の葬式の件でもともと揉めていた秀吉と勝家の対立も表立ったものになっていってしまいます。 秀吉は急遽仕切り直しのために、やはり名代を立てることにします。そこで白羽の矢が立ったのは当然、信雄だったわけです。これで完全に秀吉と信雄、池田恒興、丹羽長秀という秀吉側陣営と、柴田勝家と信孝、一益の二勢力に派閥が分かれてしまうのです。 こうして後の信孝の死、そして柴田勝家の滅亡につながっていくわけでございます。 こう見ると信孝は、非常に野心が強いように見えます。それは、自分の生まれに対するコンプレックスがあったかもしれないですね。自分の方が能力があるのに、母親の身分が低いという理由だけで序列では下につけられて納得いかない。そんなところはもしかしたら、信長よりも秀吉に似ていたのかもしれません。 さて、記事はここまで。 ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。 それでは、さらばじゃ! (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦 (シリーズ・実像に迫る17)』(柴裕之著、戎光祥出版)『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか? […]

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