信幸と信繁~その対極にある人生①~

信幸と信繁
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ふたりの兄弟の対照的な生涯を追う

一貫して徳川に忠節を尽くし、後に続く松代藩の祖となる信幸(信之)

そして、それとは対照的に家康を窮地にまで追い込み、歴史の英雄として人々から愛されることになる信繁(幸村)

大河・真田丸でも第1話より、そのふたりの兄弟の対照的な人生を暗示するようなセリフやエピソードが織り交ぜらており興味深いです。

さて、史実におけるふたりの人生とは。

今後、進行していくストーリーの予備知識として見ていきたいと思います。

 

武田の人質として、甲斐の国で過ごした幼少時代

信幸や信繁が生まれた時代。父の昌幸は真田家の当主ではなく(優秀な二人の兄がいました)武田信玄の奥近習から奏者へと昇進する過程にありました。その関係上、ふたりの兄弟も信玄のおひざ元になる甲斐で子供のころを過ごしたと考えられます。

兄の信幸は幼いころから武田家に出仕。勝頼の子、信勝が元服する際には同伴して、同じく元服したと言われています。

武田家滅亡の際には、勝頼から人質を免除され甲斐新府城から帰国を許されました。(真田丸・第1話参照

その後、徳川家康から上杉景勝に昌幸が鞍替えすると、信繁は人質として越後春日山城に赴くことになります。到着した信繁と対面した景勝は、まだ19歳の信繁の器量を一目で見抜いたとも言われ、なんと、一千貫という高禄を与えています。(※石高に換算すると2000石)

これには、景勝の将来的な信濃支配の布石としての意図。も見て取れ、人質とは言え、ある程度自主性も保証された、「上杉の家臣」としての待遇を信繁は受けたと言えるでしょう。

また、この際、矢沢頼康(三十郎)を含めた数名の家臣も随行していたとの記述があります。

 

兄弟ふたりの合戦での活躍は、どうだった?

 

様々な記録にも残る信幸の活躍

兄・信幸は、天正十二年(1584年)、真田の手子丸城が北条によって落とされると、800の兵で奪還に向かっています。城の向かい側に陣取った信幸は3000の北条軍をおびき寄せることに成功すると高所から攻撃。さらに、伏兵を突撃させ、錯乱した敵が手子丸城に逃げ帰ると、信幸の別動隊がすでに城を占拠しているという戦巧者ぶりを発揮しています。

翌、天正十三年の第一次上田合戦でも信幸は300の兵を引き連れて、戸石城から参戦。北から徳川軍を攻撃し、上田城から出撃した昌幸とともに大打撃を与えて活躍しました。(※この戦いに信繁が参加したかどうかは諸説あり、その確認はとれていません。)

 

人質として大大名に臣従する信繁

一方、弟の信繁は、上杉家でも初陣の機会がないまま過ごし、豊臣の天下が定まってくると、昌幸の命で大坂城の人質として出されることになります。

信繁の初陣については、はっきりとした資料がありません。

※これが初陣。というわけではないのでしょうが小田原の役などでは、信幸とともに父・昌幸の軍につき、出陣していたようです。

 

昌幸の真田家としては、比較的安定してきた豊臣政権時代になってやっと、昌幸・信幸・信繁とが一緒に行動することがあったと言えるでしょう。それは真田家がれっきとした独立大名として認められていく過程のなかで実現していきます。

この後、信幸は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を正室に。一方、信繁は秀吉の腹心・大谷吉継の娘を正室に迎え、その後の二人の人生の分岐点となっていきます。

この続きは、投稿記事・信幸と信繁~その対極にある人生②~をご覧下さい

 

 

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