秀頼から信繁へのオファー ~大坂からの使者~

方広寺鐘銘事件の顛末(てんまつ)をきっかけとして、にわかに顕著になった豊臣と徳川の亀裂。双方の交渉はやがて緊迫したものと発展していきます。(※これまでの経緯は、投稿記事 方広寺鐘銘事件の真実~家康の言いがかりではなかった!?~ をご覧下さい。)

この時期、たいへんな苦境に立たされながら徳川との取り次ぎ役を果たした片桐且元、彼が徳川から提案された条件は以下の3つになります。

・秀頼の駿府と江戸への参勤

・淀殿を江戸詰め(人質)とする

・秀頼が大坂城を出て他国に移 る

これを豊臣側が飲むとなると、秀頼はその権威を完全に失い、徳川幕府に出仕する一大名として扱われることを意味します。逆に見れば、秀頼は豊臣の家名を後世に残す可能性がこの時点ではあったことを示しますが、当の豊臣家はこの条件に激怒、片桐且元の暗殺を企て、討伐を試みようとします。

取り次ぎ役を排除することは、開戦の意志を相手方に指し示す行為に他ならず、このことでまさに豊臣vs徳川の最終決戦への序幕がきって落とされたと言えます。

 

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信繁への大坂からの使者

もはや徳川との開戦を避けられないという事態に、豊臣秀頼は秀吉恩顧の諸大名に大坂方に見方するよう書状を送るとともに、諸国の牢人たちを集めて合戦の準備に取り掛かります。

そしてこの時期、九度山の信繁の元に使者を出したと言われるのが、秀頼の側近・大野治長。その使者は、当座の支度金として黄金二百枚、銀三十貫目と、五千人を信繁の配下につけるという破格の条件を携えてやってきました。

※黄金二百枚、銀三十貫目はこの当時の価値として約6億円。この他、信繁は成功報酬として、50万石拝領を提示されています。

永年、九度山で耐え忍ぶ生活を強いられた信繁。この誘いを彼はどのように受けとめたのでしょうか?

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