高畑淳子さんが演じる信幸・信繁の母親・薫。真田丸では京の公家出身で昌幸に嫁いだという設定の中、活発なキャラクターの信繁の祖母・とりや姉・松とは違い、上品な女性として描かれています。対比を見せることでその人物像を際立たせる三木谷さんの脚本ですが、実際のところ、彼女の生い立ちはどんなものだったのでしょうか?
公家の出自ではない可能性も
一般的に薫(山手殿)の出自は、公家の清華家菊亭晴季の娘とされています。この所以は、真田氏関係の編著によるところが大きいのですが、他にも、
①薫(山手殿)は武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説
②薫(山手殿)は宇多頼忠の娘という説
などがあります。
これは当時の時代背景を考えた時、真田昌幸(二人の兄がおり、真田の嫡男ではなかった)の身分は武田信玄の外様の家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えられるとはまず考えにくいことが挙げられます。
なお、主君である武田信玄の正室の実家・三条家と菊亭家は同格であることからも、まずあり得ないと言えるでしょう。
※このため、菊亭家の娘としたのは後世の格付けを意識したものと考えられています。
現実は、とりや松のような戦国時代の女性だった可能性
前述の①の説、「遠山右馬助の娘」の場合。実名も系譜も不明となりますが、軍記物「沼田記」によると、遠山右馬助は武田家の騎馬10騎、足軽30人持の足軽大将ということになります。薫(山手殿)が昌幸に嫁いだ時代、昌幸は武藤嘉兵衛と名乗る足軽大将(騎馬15騎、足軽30人持)で、右馬助と昌幸の間に交流があったことを感じさせます。昌幸の当時の状況を鑑みるに彼の正室の出自としては、よりリアルな説と言えなくもありません。とすると、いわゆる「ネイティブ信濃」な女性像が浮上してきます。ちなみにこの遠山右馬助は、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えたとされています。
石田三成との関係性が浮上する説
次に②の、薫(山手殿)は宇多頼忠の娘という説。この宇多頼忠は、別名に尾藤久右衛門を称しています。
尾藤氏はもともと信濃国中野牧を本拠として、信濃守護の小笠原氏に臣従していましたが、小笠原家が武田信玄に敗れて所領を失い没落すると、今度は本拠を遠江国引佐郡に移し今川氏に従いました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死。宇多頼忠(尾藤久右衛門)の父・尾藤重吉と長兄・又八郎は森可成、次兄・知宣は羽柴秀吉とそれぞれ織田氏の家臣に仕えますが、頼忠は引佐郡に残り武田氏に臣従しました。ところが今度は長篠の戦いで武田氏が敗北すると、頼忠は所領を捨て、兄・知宣を頼って近江国長浜城へ。その紹介で羽柴秀長(秀吉の弟)の家臣となりました。秀吉や秀長の出世と共に頼忠も累進。秀吉が天下統一の後、秀長が100万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ1万3,000石を領する重臣となっています。
そしてなんと、この宇多頼忠の娘が石田三成の正室になっており、石田氏の系図には、その姉妹とされる薫(山手殿)の名が載っているというのがこの説の由来となるところです。
(他にも、昌幸の娘・於菊は石田三成の妻の従兄弟(頼忠の兄・尾藤知宣の子)となる宇多頼次に嫁いでおり、石田氏と真田氏が深い関係にあった事は事実です。)
昌幸自身も後に織田信長、豊臣秀吉、そして関ケ原の合戦では石田方に。という史実を考えても、彼の行動原理になんらかの影響を与えたのではと連想させる説であると言えます。①の説と同じく、薫(山手殿)の「ネイティブ信濃」な女性像はこちらでも連想されますね。
※関ヶ原の戦いの直前に、薫(山手殿)は大坂にいたため、石田三成の人質となって大坂城に拘留されています。ただし人質とは形式だけの事で、三成が昌幸に宛てた書状で「御内儀も大坂へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」とあり、人質とは言っても丁重に保護されていたものと推測されます。
山手殿の人生の終焉
関ヶ原終結後に昌幸・信繁親子が九度山に幽閉されると薫(山手殿)は信之に引き取られ上田に留まることになり、後に出家して名を寒松院と改めました。
そして、九度山での昌幸の死からちょうど2年後、薫(山手殿)も息を引き取ります。
様々な出自が推定される人物ですが、いずれにしても、夫・昌幸とともに波乱の人生を生き抜いた芯の強い女性だったに違いありません。確実に言えることは、彼女の子息が「日本一の兵」と呼ばれる戦国武将に育ったということでしょう。