秀吉の付け髭。猿は自ら呼んだ?
「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と記したのはルイス・フロイス。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣だったので、髭の薄い秀吉は付け髭をすることもあったと言われています。(※中国には昔から秀吉が中国出身者であるという説があるようです。)
またその容姿について、「禿げ鼠」という呼び名があり、これは信長がおねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの、禿げ鼠」と書いたものが現存していることからといわれます。秀吉というと「猿」のイメージが強いのですが、これは山王信仰(※猿は日吉大社の使い)を利用するために自ら利用した、とする説もあるようです。
多彩な才能を魅せた秀吉
低い身分から大成した秀吉。幼少のころには、充分な教育も受けられなったと推測できますが、文化人としてもその多彩な才能を発揮しました。例えば囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海に指導を受けた他、古典文学を細川幽斎、連歌は里村紹巴(さとむらじょうは)、有識故実(※古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事などを研究すること)を菊亭晴季(はるすえ)、能楽は金春太夫安照(こんぱるたゆうやすてる)に学び、茶道においては言わずと知れた千利休から手ほどきを受けています。
これらは単に学んだというだけでなく、それが茶道であれば、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田織部(ふるたおりべ)でもなく秀吉であるという評価があったり、筆においてもその才能を発揮した秀吉に対し、北大路魯山人は、新たに三筆を選べば秀吉も加えられると高く評価するなど、あらゆる分野でマルチな才能を発揮しました。
天下人の人柄
人の心を掴む天才とされており、「人たらし」といわれる秀吉。たいへんスケールの大きい「大気者(たいきもの)」だったわけですが、周知のとおり、権力を手に入れた晩年になると、狭量な面や必要以上に世評を気にするなど、変化が見て取れるようになります。
前述のルイス・フロイス。外見以外の秀吉の人物評を、優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。と評した他、
・極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
・抜け目なき策略家であり、本心は決して明かさず、偽ることが巧みで悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。としています。
活力や才能でみなぎり、いきいきと活動したとされる若かりし木下藤吉郎の時代と、まさに人が変わったかのように尋常ではない所行が多いとされる晩年の豊臣秀吉を名乗った時代。この変化について、人間の長所・短所などまさに表裏一体という(大きな)一例であり、生来の性質を隠す必要もないほどの権力を手に入れたということが大きいのではないかと思うのです。
最期
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営。各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて、秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しみました。
(※醍醐の花見=豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を招待した盛大な花見。北野大茶湯と並ぶ、秀吉一世一代の催し物として知られています。醍醐寺では、現在でもこれにちなんで、「豊太閤花見行列」を催しています。)
利休の切腹、秀次一族の大虐殺、朝鮮半島での残虐行為。決して豊臣政権の強化には繋がらない所業を残して、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉はその生涯を終えました。
その死の3か月前の5月15日には、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと、五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書き、血判を付けて返答しています。その十一箇条の内容は、概ね「皆で秀頼を守り立てるように。」というもの。
そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日、居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼しました。さらに8月5日には再度、五大老宛てに遺言書を記しており、その最期は憐れみ買って、息子と自分の家の存続を訴えたと言ってもおかしくはありません。
その死因については現在も不明であるとされており、脳梅毒、大腸癌、赤痢のほか、尿毒症説、脚気説、また感冒(インフルエンザ等)で亡くなったなど様々です。天下人であったにもかかわらず、明確な死因を確定する資料が残されていないことは、周囲の人間の、秀吉個人の死に関する興味よりも、豊臣政権以降の次の時代への興味が勝っていたことの現れかもしれません。