菊亭晴季(はるすえ)

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公家の中の公家(清華家の家格)の菊亭家

菊亭家は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)のうちのひとつ。最上位の摂家に次いで、大臣家の上の序列に位置します。

また、菊亭家(きくていけ)は今出川家(いまでがわけ)ともいい、鎌倉時代末期、太政大臣・西園寺実兼の四男、後の右大臣菊亭(今出川)兼季によって創設されました。
「今出川」は兼季の邸宅・今出川殿からとった名、そして「菊亭」はその邸宅に、兼季が愛好した菊が数多く植えられていたことからとった名といわれており、兼季はこの双方の名を用いています。
※一説によれば、大納言までは「菊亭」を称し、大臣にのぼると「今出川」を称したとも。

 

秀吉の時代に生きた晴季(はるすえ)

天文14年(1545年)に元服し、将軍・足利義晴から「晴」の偏諱(へんき=功績のあった家臣などに自分の名の一字を与えることを受けたのが菊亭晴季(はるすえ)です。天正13年(1585年)には従一位右大臣にまで昇りつめました。

この当時、秀吉は征夷大将軍の官職を得るため足利義昭の猶子となる工作をしますが義昭はこれを拒否。秀吉は将軍職をあきらめざるを得ませんでした。

そこで秀吉に関白任官を持ちかけたのが菊亭晴季と言われており、その後も朝廷と豊臣政権の調整役を務めることになります。
こうして晴季の朝廷内での存在感は増し、さらに娘の一の台を関白・豊臣秀次に嫁がせるなどして大きな立場を得ることに成功しました。
しかし、文禄4年(1595年)8月、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自害を命じられると、一の台をはじめとする秀次の一族がことごとく処刑。晴季もこれに連座して越後に流罪となっています。

しかし翌年の慶長元年(1596年)には赦(ゆる)されて帰京。流罪は一時的なものでした。

死去したのは元和3年(1617年)、3月28日。享年79歳と言われています。

 

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